
書名 都市鎌倉と坂東の海に暮らす
編者 網野善彦・石井進
初出 1994年 新人物往来社
「中世の風景を読む」シリーズの2である。坂東の海に暮らす、というフレーズに惹かれて読み始めた。ここには中世坂東の風景が描かれている。9編の論文の中から、任意に読んでみたい。海といってもそれは、現代の地形図からする海とは違う。「将門の乱から鎌倉武士へ」で鈴木哲雄が明らかにする。坂東9カ国を分けるのに中世の利根川を境とする峰岸純夫の区分(利根川左側の伝統的な豪族、右岸の中小武士団の連合)をさらに詳しく二つの海と二つの地域の区分に鈴木哲雄は分ける。吉田東伍にならって現在の茨城県西南部一帯を覆っていた香取海(内海)とそれに流れ込む鬼怒川の水系を一つの地域としてみなし、中世の利根川水系とそれが流れ込んでいた江戸湾を一体とした地域と構想する。この構想は妥当性があると思う。さらに、相模川・相模湾を中心とするもう一つの地域を設定すると坂東の海の全体が明らかになる。鈴木哲雄はこのうち鬼怒川=内海(香取海)地域に視点を当てて、中世の坂東を解いていく。「鬼怒川=内海(香取海)地域の荘園や公領の在地支配権を掌握した鎌倉武士のほとんどは、将門の乱を鎮圧した側の武者の系譜をひく者たちであった。常陸国側では常陸平氏などが、下総国側では秀郷流藤原氏や良文流の両総平氏がそうである。かれらは将門の時代以来、坂東の海――ここでは鬼怒川=内海(香取海)地域に暮らした武者の流れをくむ者たちだった。」両総平氏といえばすぐに千葉常胤、上総介広常など鎌倉幕府創業の功臣を上げることができる。鈴木哲雄がここで取り上げているのは「義経記」に従者の一人として出てくる船扱いの巧者である片岡常春である。佐竹忠義の婿で、千葉氏の一族である彼は下総国三崎荘(海上郡)の地頭である。「片岡の力量は、行方の荒磯に育った船の武者としてのものであった。」として坂東武者は騎馬武者のみならず、船の武者としても内海(香取海)で育っていたことを示している。こうして坂東の海に暮らした武士たちの姿を浮き立たせている。
中世の利根川水系・江戸湾の風景はどうであったのか。利根川、荒川などの武蔵国の水系が流れ込む江戸湾を中心とする中世の風景は、「都市鎌倉と坂東の海に暮らす」では中心的な論考が行われていない。これも新たな視点の当て方であろうか。
柘植信行は「開かれた東国の海上交通と品川湊」を流通の側面から検討を行っている。時代は鎌倉から室町期に至るが、江戸湾の西側の湊は六浦湊から品川湊(目黒川河口の砂州上に発展)や神奈川湊へ移っていたのである。品川湊の有徳人(富裕人)である鈴木氏や榎本氏は熊野出身者といわれ、「鈴木道胤が品川の問であって品川湊の廻船と商品流通のみならず土倉としても経済活動を展開していたと考えられる。道胤は、宝徳2年(1450)に足利成氏によって蔵役を免除され、鎌倉府の保護の下に広範囲な活動を展開し、港湾施設や町の運営を行っていたと考えられる。」(柘植)活動の中に宗教活動への支援も含まれる。鈴木道胤は品川・妙国寺に七堂伽藍を建立し、榎本氏は品川・海晏寺の檀越であり梵鐘を寄進している。鈴木、榎本、宇井は熊野三党(三苗)といわれた品川の名家であり、彼らが宗教活動に熱心なのも湊の有徳人である性格に起因している。海上安全の祈祷も必須であった。「つまり港湾都市の宗教構成は、寺社が海運をもとにした経済活動や徴税など湊の重要な機能を担う側面をもつとともに、海に生き、湊を遍歴する人々の宗教意識が、それを支える主要な構成要素の一つをなすによって成り立っていたと考えることができる。」(柘植)品川湊は神奈川湊とともに武蔵国府の津として、また古利根川、太日川の河口部に形成された今津(江戸川区)とともに江戸湾の主要な湊として栄えた。流通は物資のみならず思想も運ばれる。
鎌倉仏教の祖師の中で、唯一東国出身は日蓮のみである。「東国の日蓮宗」の活動に注目したのが、湯浅治久である。日蓮その人は首都鎌倉の幕府に近い武士への働きかけを中心に思想の影響を図った。本格的な展開は京都町衆の法華経信仰と天文法華の乱であるが、湯浅治久は東国での活動に注目する。日蓮宗は統一した教団ではなくその中にいくつもの門流を形作っている。湯浅治久はその中の主に中山門流を分析する。その門徒の中心は下総国守護千葉氏の被官富木常忍であることはよく知られている。守護所八幡庄(市川市)はそのころの拠点であった。やがて鎌倉後期には千葉胤貞が中山門流に帰依。日蓮は出身地の安房から鎌倉に入るのみならず、江戸湾奥の八幡庄(法華経寺近くの二子)からも六浦経由(六浦には有徳人荒井妙法の屋敷に六浦堂と言う拠点をもっていた)で鎌倉と往復していたと湯浅治久は考える。
千葉氏の本宗が蒙古襲来を契機にして胤貞から従兄貞胤に移り、分裂対立を南北朝まで続けることになる。千葉胤貞の猶子日祐が中山門流をこの中で発展させていった。日祐は「胤貞流千葉氏の所領である八幡庄・千田庄・神保萱田御厨」に教えを広げていく。さらに千葉氏の所領のあった肥前国小城郡にも末寺を広げる。有力武士と宗教との結びつきは血縁関係に集約される。湯浅治久が上げているだけでも、中山門流法宣寺の院主・日英は武蔵守護犬懸上杉氏の守護代埴谷氏、両山派池上本門寺七世日寿は山内上杉氏の重臣長尾氏の出身、八世日調も同じく上杉氏の重臣狩氏の出身、九世日純は犬懸上杉氏憲定の子、でありいずれも政治的な伸張にかかわって発展している。
大檀那の所領を繋げるだけでは宗教活動としては限界がある。水運の湊の場を取り仕切る有徳人も新興の宗教にとって布教の有力な対象であった。武蔵国石浜は対岸の今津とともに隅田川河口の湊であった。日祐は法華道場を開き、中山門流法宣寺もここに拠点を置いていた。天目門流、日汁門流は品川に拠点を設け(天)妙国寺を建立している。信徒の中心には先に記した鈴木道胤がいる。「また品川に足跡をしるした日汁は、品川と市川の弘法寺や木更津方面を水路で往来している。江戸湾の各拠点は水路で緊密に結ばれており、それが同時に宗教の道であったのである」ことを湯浅治久は明らかにしている。
このような広がりはまた従来の土着の仏教信仰との混交(「雑宗的な性格を示す在地の進行の中にあって」)をもたらす。これに対して中山門流に学んだ日親(鍋かむり日親)や前に登場した日汁(顕本法華宗)は純粋な日蓮の教理をもとめる運動を起こし、やがて室町期には「不受布施派」が形作られる。
湯浅治久は「東国の日蓮宗」を次のようにまとめる。「在地の住民・寺僧・地頭など支配者たちに支えられ、年間を通して執行される『行事』の姿に、在地に確かに根付いた日蓮宗の姿を見ることができよう。しかし、そこにおいても深刻な教義上の論争、言い換えれば他の信仰との相克という矛盾を抱え込んでいることもまた、指摘しないわけにはいかない。その意味で、日蓮が夢想した法華悉皆の国『釈尊領』はついに実現を見なかったということができるかもしれない。」
この本の意図は、従来の坂東のイメージである辺境の農村地帯、そして農地を占有して勃興する武士たちという固定観念を一新することであった。しかし、坂東の別のイメージを提出してはいるが、従来のイメージを一新するほどのものとはなっていないと感じられた。(2006/10/23)
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