楽書快評
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書名 鎌倉擾乱
著者 高橋直樹
初出 1999年7月 文芸春秋
 歴史小説といっても時代を江戸時代に題材をとった物語が多い。それは時代が近いために人々の生きるテンポが似ているためかとも思う。だが、中世は捨てたものではない。中世鎌倉時代を扱った小説は多くはない。永井路子が思い浮かぶ程度である。鎌倉に住んだ中山義秀の名をつけた文学賞を受賞した「鎌倉擾乱」は「非命に斃る」、「異形の寵児」、「北条高時の最後」の三部作から成る。単行本(1996年)に出でたものを、文庫本化(文春文庫1999年)したものを読んでいる。
 「非命に斃る」は源頼家が母政子、母方の祖父北条時政、母方の叔父・北条義時の謀略にあって妻子、妻の実家比企一族を根絶やしにされたうえに(1203年 建仁3年9月)、翌年自分も伊豆で殺された事件を扱っている。「異形の寵児」は北条得宗の内管領平頼綱の物語である。「北条高時の最後」は鎌倉幕府最後の得宗高時と平頼綱の叔父の子(あるいは甥)である長崎円喜とその息子高資との確執の物語である。
 源頼家の不幸は、偉大な先代頼朝でなかったことであり、母方の親族・北条氏が一族の繁栄に源氏を必要と感じなかったことである。北条政子も息子たちよりも血族を第一義に考える女性であった。北条氏にとって流浪の源頼朝は一人の婿でしかなかったのであろう。よく言われる源氏三代の貴族化志向と坂東武士の心を大切にする北条氏という図式も後からつけた主殺しへの言い訳である。「非命に斃る」に特別な意匠があるわけではない。ただ、鎌倉の狭さをことさらに強調しているところが、注目されようか。御家人というとすべての武士が鎌倉殿の御家人であるかのように思うが、東国を主にした130家程度の限られた人々であった。したがって、鎌倉が狭いというのは同時に鎌倉幕府の構成メンバーの狭さ、鎌倉を中心とする武士政権内部での権力闘争の狭さをも暗示している。
 「鎌倉擾乱」の中心である「異形の寵児」は、平頼綱という非御家人、御家人・北条得宗家の家来を扱った小説である。父平盛綱は平姓関氏ではないかといわれている。盛綱は北条泰時、経時、時頼に使え、頼綱は時宗、貞時に使えた。鎌倉時代は頼朝によって苗字を名乗ることを御家人は強制された。源、平などの姓は天皇によって与えられたものであり、将軍の家臣(御家人)であることを自覚させるために、あえて三浦、安達、北条などの苗字を名乗らせた。しかし、それは御家人に限られたことである。頼綱が平としかでてこないのは御家人でないからであろう。高橋直樹は平頼綱を虚弱な武士らしくない人物として描く。そして、北条時宗の外祖父・安達泰盛に引き立てられ、得宗御内人による監察機構を整備することでのし上がる過程を小説とした。その得宗時宗が1284年 弘安7年4月に没すると、安達氏を挑発し翌年11月安達氏を族滅する(霜月騒動)。幼い得宗貞時を擁して(平頼綱は乳母夫)「諸人恐懼」といわれたほどの監察機構を中心とした恐怖政治をおこなった。高橋直樹は「鎌倉の街は真夏でも見えない霜に包まれていた。身を切る恐怖が人の心を凍りつかせ、そよぐ風までが剃刀のごとく首筋を冷やりとさせた。」と表現している。
 この間の頼綱と安達泰盛との駆け引き、息子たち(長男平宗綱と次男飯沼資宗)とのいきさつなどをストーリーとして展開している。平頼綱は次男飯沼資宗をもって家の格上げを行おうとした。得宗御内人では異例の検非違使を勤め、安房守に任ぜられた。その平頼綱にも時の流れは押し寄せてくる。得宗・貞時の成長である。それは、鎌倉を襲った大地震とともにはじまった。1293年 正応6年4月13日、鎌倉は大地震に襲われた。内管領となっていた長男平宗綱を抱き込んだ得宗・貞時によって平頼綱、飯沼資宗親子は得宗舘で誅殺された(平禅門の乱)。「やがて東の空が明るみ、再び鎌倉の街に朝が来た。それは新しい時代の到来のようにも錯覚されたが、頼綱、資宗、むじな丸、三つの骸が厳然と指し示しているのは、迫り来る滅亡だ。己れが生き延びるため、鎌倉の申し子たちは、前にいる者を殺し続けなければならなかった。その果てしなき走路が終焉に近づいていることを白日の下に知らしめたのだ。鎌倉幕府は貞時の子、高時の世に斃れ、街は灰燼に帰した。」と「異形の寵児」を締めくくる。異形とは平頼綱が坂東武士のようにたくましくなく、監察制度の考案によって恐怖政治を始めた人物をいうのである。寵児とは時代の寵児である。蒙古来襲の異常事態を媒介にして得宗支配は強まったが、それは得宗外戚によって生き延びてきた安達氏を族滅した御内人による支配でもあった。
 北条貞時は、平頼綱を滅ぼしても得宗支配のためには御内人なしには日が暮れなかった。頼綱の叔父の子ともいわれる長崎光綱が得宗内管領となっている。光綱の子が長崎円喜(高綱)である。長崎は苗字の地を、伊豆国田方郡長崎郷(静岡県韮山町)とも駿河国入江庄長崎村ともいわれている。最後の小説「北条高時の最後」は得宗高時と内管領長崎円喜、高資親子との軋轢が主題となっている。このように「鎌倉擾乱」三部作は源頼家と北条氏との関係を時代が経て、北条得宗家と内管領長崎氏との関係にスライドさせた構成となっている。北条高時は弓を射れぬほどの虚弱な人物として設定されている。それは平頼綱のアナロジーである。狭い鎌倉の中での政争に暮れる支配者たちの姿を高時の弟・北条泰家は「そもそも六十六州の御家人が棟梁を必要としたのはなにゆえか。武家の血肉に等しい所領を守り増やすため、争いがあれば公正に裁きを賜るため。『御恩と奉公』。所領安堵を受ける代わりに家来となる。この簡単な理屈をわれらはみな複雑な政争にまぎれ、忘れてしまったとは思し召さぬか。」と弾劾している。高橋直樹は鎌倉末期の御内人たちが地域間貿易などの商業活動もおこない、「所領安堵」のみではない活動によって有徳人化し、それはまた得宗支配の拡大にもつながっていった時代の景色を見落としている。
 高橋直樹の筆は狭い鎌倉の地での狭い権力争いに翻弄された源氏・北条得宗家・内管領平・長崎氏の心模様に執着する。虚弱ではあっても凡庸ではない高時も、権力を握っている長崎親子に屈服するしかなかった。だが、新田義貞による鎌倉攻めによって、その権力基盤が崩れるとき、「内管領では彼らを連れて行くことはできない。得宗として生まれた高時だけが時代の幕を引き、彼らの魂を導くことができるのだ。いかに不肖であっても、得宗は高時なのだ。他に代わることのできる者はいない。」ことがわずかの自負である。こうして菩提寺東勝寺に篭った北条一門、御内人たちは滅んでいった。
 このように鎌倉時代を内側から描いた小説は少ない。それだけに価値のある「鎌倉擾乱」である。中山義秀賞の選考委員を務めた安西篤子は「頼綱は悪一筋の人間ではない。自分の殺した人間の血の臭いに嘔吐し、『いったい何人殺せば良いのじゃ』と呟く、気の弱い一面も見せる。これで頼綱が獣じみた怪物ではないとわかり、人物像に厚みが出た。」「作者はこれを、高時とその内管領を務めた長崎円喜・高資父子の関係を中心に描いた。高時は北条氏を滅亡に導いた暗愚な人物とされていることが多いが、私はかねてからそのような見方に不満を抱いていた。さすがに高橋氏はそうした俗説に惑わされず、得宗としての自覚のもとに、誇り高く死ぬ道を選ばせた。」と評価している。
 平頼綱を時代背景もふくんで描いた小説は高橋直樹のみではないだろうか。だが、鎌倉内部の権力闘争にのみ力が入り、時代背景そのものの把握が甘いために内面の葛藤に重点が移っている。内面の葛藤が描かれなければ小説をはいいがたいであろうが、開発領主としての武士という古典的なイメージから時代を見ているために、人物造形の限界をもたらしていると感じた。狭い鎌倉に吹き寄せる時代の新しい風が、鎌倉内部での権力闘争を終わらせたのであるが、「鎌倉擾乱」からはその風の色は見えない。(2006/11/11)
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