楽書快評
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書名 中世都市十三湊と安藤氏
著者 国立歴史民族博物館
初出 1994年12月 新人物往来社
十三湖 中世、十三湊(とさみなと)とそこを基盤とする安藤(安東)氏を注目したいと思う。鎌倉時代末期、最後の得宗内管領長崎高資が得宗御内人安藤氏内部の争いに両方から賄賂を取って、抗争を深めたことは、よく知られたている。また、十三湖のほとりから中世の都市が発掘され大きな衝撃を与えたことも、知られている。
 日本海の北端にあった十三湊について発掘を行ってきた国立歴史民族博物館(歴博)が1993年に青森市で開いた第14回歴博フォーラムをまとめたのが「中世都市十三湊と安藤氏」である。中世に栄えた十三湊を現代に甦えらせたシンポジウムは、多面的な報告があり、その後の研究の礎を形作った。その中から、北条得宗家とのかかわりに絞って、取り上げてみたい。家紋を三鱗である事からも推測されるように、北条氏は伊豆国北条を名字の地とする海の豪族でもあった。権力を独占するに至ると全国津々浦々の交易の拠点を領有していったのである。また、北条氏の被官(御内人)をその支配に派遣し、あるいは在地の有力者を御内人化していった。
 安藤氏はどのような経緯を経て御内人となっていったのであろうか。鎌倉時代以前は平泉藤原氏が東北地方を支配していた。津軽地方は「10世紀後半から11世紀においては北方交易の拠点地域でもあります。奥州藤原氏は、北方、特に北海道や大陸北部との交易を重視していたことが文献上でも知られており、前代の交易権を引き継ぎ、さらに発展させるためには、この地域の経営を重視し、安定させる必要に迫られていたものと考えられます。」(「安藤氏台頭以前の津軽・北海道」 三浦圭介)
 院政期国家の北方政策を担う地方権力として平泉権力を規定する遠藤厳は「津軽海峡以北の蝦夷沙汰のためにも、もともと蝦夷地であった北奥羽の地域性がことさらに重視されます。奥大道を通じて多賀府中・平泉と直結する陸奥国の外浜・西浜や、日本海北方交易の拠点であった秋田城に密接する小鹿島が、浜・島の名称のままで郡的所領に形成されたのも、北方蝦夷沙汰を全うするために必要とした編成方法であろうと考えられます。西浜の十三湊や蝦夷(俘囚)系譜の安倍姓安藤氏は、この中でクローズアップされてきます。岩木川流域の中崎館跡、陸奥湾に面する蓬田大館跡や尻八館跡など、多くの遺跡が調査され、このころ当地域の社会構造が大きく変化したさまが解明されています。」(「東アジアの国際情勢のなかで」)と、安藤氏の台頭を平泉政権の北方政策と関連付けている。
 さらに、鎌倉時代への移行について遠藤厳は「鎌倉幕府の東夷成敗を北奥津軽と北羽秋田の拠点2ヶ所で具体的に執行する蝦夷沙汰代官が置かれ、この代官職に蝦夷系譜安倍姓安藤氏の有力者が新たに抜擢されることになりました。南北朝期に作成された『諏訪大明神絵詞』では、蝦夷沙汰代官のことを蝦夷管領として表現しています。」このように見ていくと安藤氏はその時々の中央権力と結びついて自らの地方権力を拡充してきたことが分かる。それは、北条氏の意向とも合致するものであった。網野善彦は「基調講演・中止の日本海交通」において「13世紀後半、鎌倉幕府後期から南北朝時代になりますと、・・・鎌倉幕府の中枢の政治権力を握っている北条氏が日本海交易にその支配の手を伸ばしてきます。北条氏は日本列島の全域にわたって海上交通を支配しようとしており、列島最南端の永良部島あるいは喜界ヶ島、徳之島、奄美大島等、今の鹿児島よりも南の島々もその所領にしており、当時の日本国の最南端を押さえていたと考えられます。そして同じく日本の北端にあたる津軽もご承知のように北条氏の所領となっており、安藤氏はその代官という形で蝦夷管領になったと言われています。」「津軽船は、決して津軽だけにいたのではなくて、日本海の海辺の大きな港に散在している大船で、津軽まで航行、交易するのを通常としている船であり、それが二十艘、北条氏によって通行税を免除されていたのではないかと思います。」と分析している。
福島城跡 「十三湊も博多も、鎌倉期には鎌倉幕府・得宗権力との対応関係で段階づけられる。北条義時の陸奥守帯任、安藤氏の得宗被官化と東夷成敗沙汰の管掌と十三湊の形成とは、文献史料で直接結ぶもののあることは知らないが、現在の研究傾向からすれば一体的に理解する方向にあると言えるだろう。安藤氏の日本海交易も得宗権力とは不可分である。」(「十三湊と博多」川添昭二)ただし、西国における領主と湊の関係と違い、町衆の自治権は強くない。「十三湊の安藤氏館と塩釜津」において大石直正は「商人・運漕業者などによって構成される、自治的な湊町を西国的なものとすれば、十三湊のような構造の湊町は東国的なもの見るべきなのかもしれない。だが安藤氏の場合は、通常の農業社会を基盤とする領主とは異なり、もともと自らが海運や商業に携わる、海民の首領とでも言うべき性質のものだったと考えられ、西海の松浦党などにも類似した性質を持つ一族であった。安藤を名字とする人々は奥羽の海辺に広く分布しており、その中には北条氏の被官で地頭代になるものから、民衆的なものまでが含まれていた。」と述べている。
 中国を中心とする大陸の政治状況は、交易を重んじる環日本海の政治勢力に大きな影響を与える。一般的な鎌倉の政治史からみれば、得宗政治の破綻を示す内管領長崎氏の横暴も、在地から見れば様相はまた違う。「鎌倉末期の津軽大乱も、直接の契機は蝦夷の反乱でした。幕府が反乱鎮圧のために、蝦夷沙汰代官職を安藤季長から安藤李久(宗李)に交替させ、事態がこじれて安藤氏一族間の合戦になった、というのが真相です。」(遠藤厳)
 得宗の保護(例えば関東御免津軽船)のもとに、北方の物産を集約し交易する十三湊を拠点とする安藤氏は、巨大な富を蓄積し、その在地性によって強固な基盤を形づくっていた。北条氏が滅んでも長く地方権力を保ちえたのは、その交易による富の力が大きいと思う。その力は糠部南部氏との抗争に敗北し、蝦夷上ノ国に一時引きこもった後も再び日本海側に拠点をもうけ、秋田氏として戦国大名になることを可能にしたのであろう。
 国立歴史民族博物館(歴博)が1993年に青森市で開いた第14回歴博フォーラムはその後も在地で受け継がれていった。「北の環日本海世界」(村井、斉藤、小口編 2002年5月 山川出版社)は、青森県西津軽郡深浦町が1991年以来、歴史と文化を探る取り組みを行った記録である。2000年に、シンポジウムを開いた記録がこの「北の環日本海−書きかえられる津軽安藤氏」である。志の高さを感じるのは、「北の世界」全体に視野を広げ「『環日本海世界』は、本州北部・北海道から、サハリン・大陸沿海地方・アムール川流域を中心とする、『北の環日本海世界』であり、その中に朝鮮半島(韓半島)をも含むものであった。」「シンポジウム開催地である深浦町にとっても、自らの地の過去と未来を、国際的な結びつきと交流のなかで考える」という姿勢である。十三湊も、また安藤氏の姿も中世の環日本海交易を具体的に担ったのかは、まだ明らかではないようである。これからの解明を楽しみにしたい。(2006/11/20)