楽書快評
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0138
書名 十一面観音巡礼
著者 白洲正子
初出 1975年 新潮社
国立博物館・平成館 11月の晴れた日、上野にある東京国立博物館に「仏像―一木にこめられた祈り」特別展を見に出かけた。上野の森はイチョウの実のにおいがこもっていた。特別展の中心は滋賀県向源寺(渡岸寺観音堂所在)の十一面観音菩薩立像である。白洲正子が聖林寺・十一面観音像とともに、繰り返し絶賛した十一面観音である。「十一面観音巡礼」の終わり近く「湖北の旅」において、その出会いを次のように湖上を渡るそよ風にたとえている。
 「お堂へ入ると、丈高い観音様が、むき出しのままに立っていられた。野菜や果物は供えられてあるが、その他の装飾は一切ない。・・・湖水の上を渡るそよ風のように、優しく、なよやかなその姿は、今まで多くの人々に讃えられ、私も何度か書いたことがある。が、一年以上も十一面観音ばかり拝んで回っている間に、私は新しい魅力を覚えるようになった。」
 その特徴を「渡岸寺の観音の作者が、どちらかといえば、悪の表現のほうに重きをおいたのは、注意していいことである。ふつうなら一列に並べておく瞋面と、牙出面を、一つずつ耳の後ろまで下げ、美しい顔の横から、邪悪の相をのぞかせているばかりか、一番恐ろしい暴悪大笑面を、頭の真後ろにつけている。見ようによっては、後ろの姿のほうが動きがあって美しく、前と後ろと両面から拝めるようになっているのが、ほかの仏様とはちがう。」「十一面観音は、いわば天地の中間にあって、衆生を済度する菩薩なのであろうか。」と述べている。平安時代・9世紀に作られたと思われる194cmの大きな一木彫の菩薩像は見上げるように展示されていた。仏像は下から見上げるものなのであろう。背景としては、東京国立博物館編集の作品解説によると「この像をとりまく環境は近江における山岳信仰の中心地として諸寺院が栄えた己高山(こだかみやま)の仏教文化を背景にしていたと推定される。」「この像は、従来、数少ない初期天台宗の木彫像の代表作として知られてきたが、比叡山とは別に奈良を背景に造立された可能性もあることを指摘しておきたい。」とあり、諸説があるようだ。このような諸説は諸説として、小さなお堂に安置され、村人が守ってきたそよ風のような十一面観音を見られたことは幸せである。
 もう一つ、見てみたいと願っていたのが平安時代・11世紀に作られた宝誌和尚立像(ほうしおしょうりつぞう)である。この鉈彫の一木彫の和尚立像は衝撃的である。拝む仏の姿ではない。そよ風が拝む者に吹き寄せてくる仏像ではなく、怪異な人物像である。顔が裂けて十一面観音が現れた様子が、そのままに彫られている。中国南北朝時代の僧侶ということである。作品解説によると梁の武帝が画家に宝誌和尚の姿を写させようとしたところ、和尚は自分の指で己の顔の皮を剥ぎ、現れた十一面観音が自在に慈悲や威嚇の顔に変化させたので描くことができなかったという伝説の人物である。観音には立木観音というものがあり、立っている生木に直接仏像を彫るものである。あるいは立木に本来ある仏性(霊性・神性)を彫り出す考えがある。立木に仏性があれば、人間にも仏性があっても不思議ではない。それが、宝誌和尚立像のコンセプトにもあるのだろうと推測した。自分なりの納得である。現在は京都の西住寺にあるが、東国にあったものではないかと作品解説は述べている。「この宝誌和尚立像は、現在、西住寺に伝わるが、貞享4年(1687)に同寺に移される以前は伊豆の庭冷(ていれい)山にあったことが同寺の縁起からわかる。現在の伊豆地方には庭冷山と音が近い天嶺(てんれい)山が賀茂郡にあり、山麓には平安時代の古仏を多く残す南禅寺が所在しており、宝誌和尚立像もそこにあった可能性がある。東国は鉈彫の中心地であることも留意される。」と推測している。
 白洲正子に戻ろう。「十一面観音巡礼」は西国を中心とした巡礼であり、東国は「姥捨山の月」で塩田平の大法寺・十一面観音に触れているばかりである。怪異な宝誌和尚立像は巡礼の旅にふさわしくない。白洲正子は外来の宗教である仏教が日本に根付くには、それまであった自然のそこここに神が宿るという心性と結びつくことが必要であった、と考えているようである。例えば二月堂のお水取りに触れながら「聞くところによれば、大観音は、岩上に立っていられるという。もしそれが事実なら、いよいよ東山は、古代信仰の遺跡のように見えて来る。神が降臨する岩座に、観音は垂迹したのである。そして、すぐ傍らに霊泉が湧き出たのである。その山麓に東大寺が造られたのは当然のことといえる。」室生山寺の近くの大野寺の石造りの弥勒に及んで「この巨大な石は、ただの岩石ではなく、かつては神の岩境(いわさか)であったに違いない。雅縁は大和から室生への往復の途上、何十ぺんとなく拝んですぎたであろう。その中から、ある日、弥勒菩薩が出現した。彫ったのは宋人だが、感得したのは、雅縁で、仏は岩の中から自然に湧出したように見える。これは私の勝手な想像ではない、当時の人々はみなそのようにして、神仏を習合させて行ったのである。信仰というものは、一日にして育たない。忽然として悟るなどということを、私は信じない。もし、あるとすれば、それまでの長い経験のつみ重ねが凝縮した時に起こるのであろう。」「そして十一面観音は、時には龍女と現じ、時には水依比売の再来として、村人の生活を見守っているのだ。」また、松尾寺の宝物殿に収蔵されている「それらの仏像と並んで、ひときわ目をひく彫刻があった。もはや彫刻とは呼べない、大きな木のかたまりである。頭も、手も失われ、全身真黒焦げに焼けただれているが、すらりと立ったこのトルソーは、いかにも美しい。私は立木観音というものを未だ見たことがないが、これは正しく自然の木に還元した菩薩の像である。地獄の業火に焼かれ、千数百年の風雪に堪えて、朽木と化したその姿は、身をもって仏の慈悲を示しているような感じがする。」などなど、繰り返し語る。その語りに異議を挟むものではない。
 受容されるにはその地域の気候風土に合った変容は当然であろう。一木彫が日本に受容されたのが木や岩などにたいするアニミズムがあったからであるとも分析できる。論調として受け入れられやすい分析である。だが、それが逆に世界性(仏教は世界宗教である)を持つ質のものであると、主張するのは言いすぎであろう。もちろん白洲正子はいわない。
 特別展のパンフレットは次のように語る。「日本古代の神々は自然を背景に成立し、山や川や樹木や岩など、神々が宿る自然には威厳と神々しさが備わっていた。また、神の宿る神木で一木彫の仏像を造ることは、まさに神仏習合の表れであった。その典型例である鉈彫は、人の祈りに応えるための霊的作用力が期待されており、人と彫像との関係は相互信頼の上に成立していた。円空や木喰の場合も同様である。日本は木の文化の国であり、自然と人との融和的な共存関係はイデオロギーとしてではなく、体感的な感性として存在する。
 過去に比べて現代の日本では、自然を尊重するという伝統が希薄になってはいるが、身体的体感の仕方は無意識のうちに伝存している。しかし、いまは自然征服的な西欧近代を意識上では是認していることから、日本的体感は表層的思惟の下層に隠れている。従って、日本文化を世界に向けて発信していくためには、もう一度、自然との身体的関係を再認識し、新しい形の文化を創造する必要がある。そうすれば、日本的な文化のあり方が、現代文明を更新するための方法として、世界に向けた提言となりうるであろう。」(金子啓明東京国立博物館副館長)
 言い過ぎていないだろうか。神社も日本古来の独自なものであるかは論証されていない。中国の道教の影響を受けて成り立っているのだと思う。時空を超えた日本をあらかじめ設定することは、危うさがある。特別展で示されているように、鉈彫は東国で広がったように日本といっても地域差が激しい。一木彫も歴史的には一時期のものである。
平成館全景 東京国立博物館で展示された一木彫の多くの仏像、神像を眺めて、唐からの伝来のビャクダンンの十一面観音菩薩立像、例えば藤原鎌足の長男・定恵が請来したといわれ多武峰談山神社に伝わったわずか42cm余のインド風の仏像に世界に通じる美しさを見た。世界性を持った美しさと、ローカルエリアだけで尊重される美しさとがあってもいいのではないか。
 イチョウは中国浙江(せっこう)省にのみ野生の木がある、と聞いたことがある。(2006/11/25)