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書名 殴り合う貴族たち
著者 繁田信一
初出 2005年9月 柏書房
題名が意表を衝いている。副題に「平安朝裏源氏物語」とあるようにみやびな王朝絵巻を思い描いてしまう古代・平安京の時代への強烈なアンチテーゼとなっている。光源氏のモデルとされる藤原道長がトップバッターとして登場する。23歳の権中納言道長は従者たちに命じて式部少輔橘淑信を拉致し、懇意にしている甘南備永資の官人採用試験に手心を加えることを強要したのである。道長は自邸土御門第や私寺法成寺を造るために、羅生門、神泉苑、左右京職、穀倉院などの礎石を勝手に持ち去ったのである。「まず、京中を通行する多くの人々が、次々と駆り集められては、大きな岩石を運ぶ重労働を強いられていた。さらに、岩石が運ばれる道筋に立ち並ぶ民家は、容赦なく解体され、岩石を運ぶ道具とするため、その柱やら戸やらが無数に掠奪されていった。また、そうやって運ばれた岩石は、恐らく、平安京の各所から掠奪されたものであったろう。」と繁田信一は述べている。私邸、私寺のために平安京が破壊されたのである。
この後「殴り合う貴族たち」は延々と貴族たちの暴力を列挙する。中関白藤原道隆の嫡孫に藤原道雅(みちまさ、父は伊周)がいる。三条天皇の第1皇子敦明親王の従者・小野為明は皇太子敦成親王の従者に拉致され、暴行を加えられた。これを指揮したのが、春宮権亮の頃の道雅である。道雅は自宅に拉致し、みずから為明の髪の毛をつかみ、従者に「打ち踏む」ことを命じたという。彼はまた、あるいは賭博のいざこざから路上で殴りあいもおこなっている。そして彼が「小倉百人一首」に取り上げられた和歌「いまはただ 思ひたえなん とばかりを 人づてならで いふよしもがな」は前斎宮当子内親王との密通が露見して引きか裂かれたときの歌だという。色事から暴力にまで発展したケースもある。花山法王の皇女が強盗に殺害され、路上で死んでいた。しかもその遺骸は夜中に犬に喰われ、身にまとった衣装から身元が判明したという。繁田信一は実は、皇女を口説き落とせなかった道雅が拉致させた上に殺害を指示したのではないかと「今昔物語集」や藤原実資の「小右記」から推測している。
この道雅の父・伊周は道長によって失脚させられていたのである。内大臣であった伊周は花山法皇に矢をいかけ、法皇の童子を殺して生首を持ち帰るという事件を起こしている。事件の現場は故一条太政大臣藤原為光の邸宅で三女が伊周の愛人、四女が花山法皇の愛人であったが、伊周は自分の愛人のもとに法皇が通っていると勘違いして、ことに及んだ。こうして事件は政敵道長によって利用され大宰府権帥に左遷された。後、伊周は弟隆家とともに伊勢を基盤とする平到頼という軍事貴族を使って暗殺を企てたこともある。
このような暴力性を帯びた貴族は道雅のみではない。道長の子供たちも相当な人物ぞろいだ。19歳の少納言能信は石清水八幡宮の祭礼の行列見学に赴き、先に見物の牛車を止めていた前大和守藤原景斉ら6名の貴族たちを従者らに命じて牛車から引きずり降ろし殴り倒させた。権大納言能信は兄弟げんかもしている。相手は内大臣教通である。能信は教通の従者を拉致・暴行を加えた。これに対して後日、教通の従者は能信の従者の家宅を「切り壊つ」、つまり原型を残さないほどにばらばらに壊してしまう。道長には妻が二人いて、左大臣源雅信の娘・倫子との間には頼通、教通や一条天皇に嫁いだ研子、後一条天皇に嫁いだ威子、後朱雀天皇に嫁いだ嬉子がおり、左大臣源高明の娘の明子との間には頼宗、顕信、能信、長家がいた。道長は倫子との間の子供たちを優遇している。従って、明子腹の子供たちは貴族中の貴族でありながら鬱積した感情を持っていたのである。
鬱屈した感情をもっていた者に敦明親王がいた。彼もまた道長によって皇太子の位置から引きずり降ろされた人物である。賀茂祭の還立(かえりたち)の行列を見物に出かけた敦明親王は、見物のスペースを確保するために従者を使って見物人を追い払い、そこにいた長門守高階業敏も袋叩きにしてしまったのである。さらに、業敏の弟の紀伊守高階成章もその2年半後平安京のはずれでおなじように袋叩きにされてしまっている。この二つの事件は、二人の父・高階業遠が藤原道長の外孫である敦成親王の執事のような立場にあったことから原因が解ける。鬱屈した人々はこれだけではない。藤原兼家に騙されて天皇を退位した花山法皇もその一人である。すでに伊周の事件や死骸となって犬の餌となった皇女の父として出てきた法皇である。花山法皇を繁田信一は「この男の猟色家ぶりは、まさに病的なものであった。」と述べている。大江許[の「江談抄」に出てくるエピソードによると16歳の花山天皇は「即位の儀式が始まる以前のこと、これから自分のものとなる玉座において、女官の一人と性交に及んだというのだ。」この法皇は病的な猟色家であるだけでなく、自分の邸宅・花山院の門の前を牛車で通ることを許さず、従者による石礫によって遮ることを常としていたのである。
このようにたくさんの暴力事件を積み重ねながら、あとがきで、繁田信一は「『王朝貴族』と呼ばれた人々は、かなりの程度に暴力に親しんでいました――これこそが、この本の最初から最後までを貫く主張です。」と述べている。
貴族社会の権力者の恣意的な公権力の行使による暴力だけではなく、より直接的な実力行使による憂さばらしが横行していた。藤原氏直系にあって権力を握った者も、廃除された者も、私兵を養い暴力を欲しい儘にした。「みやび」とはそのようなものである。その私兵が得意の暴力によって、貴族たちの社会・政治体制を掘り崩すのはもうしばらく後のことである。(2006/12/3)