書名  剣客商売 「新妻」

   著者名 池波正太郎

     初出     1976年 新潮社

 好みだろうが「鬼平犯科張」「仕掛人 藤枝梅安」よりは、「剣客商売」がよい。「剣客商売」は剣術使いを芸として設定している。歌舞音曲のたぐいと同じである。歌舞音曲のたぐいと言っては歌舞音曲に失礼。剣を精神性から「俗」性へと変えることで、自由さを得ている。剣客は従って商売となりえる。立ち会っても相手には戦闘能力を削ぐ「浅い傷」を負わせるに止めるのが技である。相手からの恨みやお上の煩いを最小限とする商売としての知恵である。
 これは、親交のある老中田沼意次への態度でも同じである。田沼意次を秋山小兵衛は尊敬しているが、それは老中としての職分を見事に担っているからであり、それもまた芸である。老中芸に失敗すれば、失脚が待っている。読者は封建的な倫理の枠外で気楽に小説の世界を満喫できる。
 もう一つ、これは親子の情愛の物語でもある。小男秋山小兵衛と息子で大男の秋山大治郎との物語である。池波は同じように大治郎の妻となる佐々木三冬の父・田沼意次にも親子の情愛を求める。この二つの要素が紡がれて様々な出来事が小説仕立てとなる。
 親子の情愛が深い者が善人である、そのように「剣客商売」では描かれている。「鷲鼻の武士」(「新妻」新潮文庫)で大治郎ともう一人の剣客渡部甚之介とが酒を酌み交わすシーン。

「ですが、相手の居所を、秋山先生はどのようにしてーーー?」
「父のことです。何か考えるのでしょう。安心なさい。」
「さ、さようですか、なーー」
「酒は、まだあります。御遠慮なくーー」
「かたじけない。よい酒ですなあ」
「父がくれました」
「よい父上ですなあ」
「はい」
「私の父も、秋山先生のように、やさしかったがーー」
「そうでしたかーー」
「うらやましい。あなたがーー」
 大治郎が、ふと見やると、甚之介のたれ下がった瞼の下から泪が一すじ、かたちのよい鼻すじに沿ってながれた。

 この渡部甚之介が代稽古に行っている、黒田道場の老夫婦との秋山小兵衛の会話。
「渡部がことを、何分にも、お願い申す。のんき者でござるが、私も女房も、息子のように可愛くてなりませぬ。こんな、見すぼらしい道場ではござるが、甚之介なれば、何とかやって行けるのではないかとーー」
「まことに、うってつけでござる」
「さように、おもわれますかな?」
「はい、はい」
 続けて「小兵衛は、この老剣客夫婦と渡部甚之介との取り合せが、(ひどく、気に入った−−)のであった。」と表している。このように親子の情愛がお気に入りなのだ。

 それに対して敵役は親子の情愛が欠けている。敵役の「鷲鼻の武士」は広島藩の前藩主の妾腹でありながら、藩主の血筋を引いたことを認められずその鬱憤から乱行に走った男として描かれている。「いずれにしても、大名のすることは勝手なものじゃ」と小兵衛はつぶやく。そして、秋山小兵衛の手回しで一件落着する。あとは、推察の通り。渡部甚之介がお礼に小兵衛宅を訪れる。

「では、いよいよ、黒田道場を引き受ける決心なのじゃな」
「はい」
「これからは黒田さん夫婦を、わが父母とおもうがよろしかろう」
「道場を引き受けるこころになりましたら、私も何やら、そんな気がいたしましてな」
と、渡部甚之介は、たれ下がった瞼を小指で掻いた。

 「川越中納言」の小野半三郎は川越の山城屋の実子ではない。小兵衛は公家の落とし子かも知れないと思っているのである。「道場破り」の鷲巣見平助は、親を知らない。山中の鷲の巣にいるところを木こりが見つけた子どもである。両親を訪ねて放浪する剣客である。池波正太郎が描く敵役には時としてこのような共通点が見受けられる。
 佐々木三冬、同じように田沼意次の妾腹の子として生まれ、家臣の佐々木家に養女に出された経緯から「何も彼も、哀しいことを、いっさい忘れようーー」として、少女の頃から剣術に熱中した。佐々木三冬にとって、田沼意次との親子の和解が大きなテーマである。親子の情愛を得ることが、秋山大治郎への思慕を可能にしたともいえるし、またその逆でもある。

 さて、芸の話である。三冬と大治郎との婚礼の席上での田沼意次の会話。「三冬の白無垢の綸子の小袖に、同じ打掛。綿帽子をかぶった三冬の花嫁姿は、意次にとって、はじめて見るわがむすめの女の姿であった。意次は、泪を隠そうともせず、花嫁の三冬を見まもっていたという。」このような親子の情愛が通った情景に続けて、
 「いまこのときになって、抜け荷などがおこなわれるとは、つくづくなさけない。一日も早く国を開き、異国との交易をさかんにしなくては、いまの日本の天下は立ち行くことがかなわなくなる。そのときを夢見て、わしもはたらいてるのじゃが、なかなか、おもうようはまいらぬ。」(品川お匙屋敷)と、ささやき、小兵衛を愕然とさせた。

 政治家としての見通しの芸である。事実、重商主義を取ったという田沼意次は、蝦夷地の開拓にも積極的であり、蝦夷地と言われた北海道経由で中国、ロシアとの非公式貿易が盛んであったことも十分理解していたはずである。ただし、「開国」までの踏み込んだ施策までは及んでいないと思われる。1783年・天明3年。仙台藩医工藤平助が「赤蝦夷風説考」を上梓し、幕府に提出した。実は田沼意次の用人三浦庄司の依頼を受けてまとめらたものであるという(「歴史誕生2」角川書店)。そこでは蝦夷地の開拓とロシアとの交易が述べられている。工藤平助は紀州藩医長井家から工藤家に養子に入った俊才である。田沼意次の父意行は八代様・吉宗に従って紀州から入った人物である。田沼家は紀州との関わりが深い。江戸時代を形作ったのは八代様・吉宗であると私は考えている。
 この世を生きるには生業とする芸が必要だと、思う。芸があるから、情愛を持った人生を生き抜けるのだ、そんな気持ちが「剣客商売」を読んでいて起きてくる。     
(2004/1/14)
楽書快評
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