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書名 吉見の百穴
著者 金井塚良一
初出 1986年 教育社
埼玉県比企郡は古代には開かれた地域であった。北武蔵、ここに1887年 明治20に全面発掘された、市野川近くの松山城下崖面に百穴と呼ばれる遺跡があり、日本考古学の初期に古代住居跡なのか、墓跡なのか論争が繰り広げられた。東大大学院生坪井正五郎に指導され、現地の大土豪根岸武香たちの協力により明らかにされた百穴は、坪井正五郎が唱えた「土蜘蛛」(コロボックル人)の住居跡ではなく、横穴式墓群であった。「吉見の百穴」の前半は、この発掘とそれに付随した論争についての記述である。後半は吉見が古代の屯倉のあった場所であることを、吉見の百穴が外来墓制であることに結び付けて明らかにしようとした記述である。
前半で興味あることは、根岸武香のみならず、在地の富農たちの好古家ぶりである。郷土への関心に根ざした発掘・遺物の収集が土台となり、近代考古学につながっていく様子が分かる。この様子を金井塚良一は次にように述べている。「『吉見百穴』の北方約3キロほどへだった冑山に今も残る生家には、豪壮な構門が当時のまま保存されていて、代々名主役をつとめた根岸家の往時の威勢を今につたえている。天保10年(1838)に武香は友山の次男としてここに生まれた。」彼は明治維新後は第2代埼玉県会議長、貴族院議員、埼玉農工銀行等の監査役を勤め1902年 明治35 に64歳で病没している。
まず根岸武香等が発掘したのは吉見百穴から約4キロほどへだった黒岩横穴墓群である。1877年 明治10に素封家須藤開邦、内山温載、秋葉太玄(横見神社神職)とともに16基の横穴墓を発掘した。世間の注目を集め、この黒岩横穴墓群にはフランツ・シーボルトの子息であるヘンリー・シーボルト(当時オーストリア公使館属官)や大森貝塚を発掘したエドワード・モースも訪れている。
後半が重要である。金井塚良一は原島礼二の論文を下敷きにして突然に現れた横穴式墓制を屯倉設置に伴って管掌者として大和朝廷から派遣された渡来系氏族が持ち込んだものと推論している。
まず、横穴式墓制の全国的な遍在に注目する。「分布地域が、太平洋や日本海の沿岸地帯に偏在していることが明らかである。もちろん岐阜県や埼玉県、群馬県、栃木県、福島県などのように、内陸部に深く入った地域にも横穴墓群が形成された例もあるが、総じて、横穴墓群は太平洋や日本海の沿岸地帯に集中している。東海西部(静岡県)、関東(神奈川県、千葉県、茨城県)、東北南部(福島県、宮城県)、山陰、北陸(鳥取県、島根県、石川県)などで、とくにこの傾向がいちじるしい。横穴墓の分布の特徴の一つと考えていいだろう。」
「『吉見百穴』が所在する埼玉県では、90%以上の横穴墓が比企地方に集中している。しかもその大部分は、吉見丘陵に分布していた。埼玉県と同様に、内陸部に横穴墓が形成された栃木県や岐阜県でも、横穴墓の分布は特定地域に限定されている。」
「畿内とその周辺では、大阪府、奈良県、京都府にそれぞれ数ヶ所横穴墓が存在している。そのなかには、高井田横穴墓群(大阪府高井田)、龍王山横穴墓(奈良県天理市)のように、100基以上の横穴墓が群在する大規模な横穴墓群も見うけられたが、他は概して、小規模であった。」
東京都北区飛鳥山博物館発行の「赤羽台の横穴墓」(1994年)では、6世紀前半に北九州に起源を持ち、6世紀中ごろに畿内、出雲、駿河地方に、6世紀後半に北陸、関東、東北に広がったと解説している。特異な墓制が、比企地方に持ち込まれたことを金井塚良一は次のように論じる。吉見百穴と冑塚古墳、かぶと塚古墳の三ヶ所から出土した須恵器群は「ほとんど同時期に副葬され、何回かの追葬によって異なった須恵器を増やしていったのだろう。横穴墓群と二つの古墳の出現は、須恵器の編年によって、6世紀末もしくは7世紀初頭と推定してほぼ間違いない。」「いずれにしても出土した須恵器によって、『吉見百穴』の横穴墓の発現を7世紀初頭もしくは西暦600年前後に措定してまず誤りはないようである。」「かぶと塚古墳の出土した・・・須恵器は、北武蔵では珍しい出土量であった。器形が復原できた25点の須恵器は、ほとんど同一時期の所産と推定さえたが、器形と整形手法の特徴は、これらの須恵器が、6世紀後半に出現したものであることを示していた。」
このような比企地方での変化をもたらしたのは「6世紀後半に、吉見丘陵周辺に屯倉―大和政権の直轄地(横渟屯倉)が設置され、その管掌者として壬生吉志氏が移住したことが、吉見丘陵とその周辺地域の古墳形成を転換させた直接の原因と考えたのである。」と金井塚良一は語る。それは「日本書紀」に描かれた武蔵国造笠原直使主が、同族の小杵と国造職を争い小杵が上毛野君小熊に助けを求め、使主は大和朝廷に助けを求め、勝利した使主は大和朝廷に横渟、橘花、多氷、倉樔の地を屯倉に献上した。その横渟が吉見の地であると、原島礼二の論説に従って金井塚良一は考えている。「その屯倉の設置時期は『日本書紀』が示す安閑期ではなく、『比企地方の外来墓制−横穴墓や胴張りのある横穴式石室の唐突な出現』という二つの墓制の出現は、むしろ『比企地方の政治的な変動と外来氏族の集団移住によってひきおこされた歴史的現象』と考えてもあながち間違いではなさそうだったのである。」
大和朝廷に屯倉に献上した横渟、橘花、多氷、倉樔の地は横渟屯倉を除いて武蔵国府(東京都府中市)に近い南武蔵にあり、なぜ横渟屯倉が現在の埼玉県吉見町にあるのか重要な問題となっている。金井塚良一はそれを解く方法として吉見百穴を持ち出し、渡来系氏族難波吉志氏の管掌者としての集団移住を導き、これをもって横渟屯倉の存在根拠とする論理展開を行っている。摂津国には横穴式墓群も高井田横穴墓群(大阪府高井田)をはじめ集中している地域でもある。「壬生吉志氏は、おそらく横渟屯倉の設置ののちに、屯倉の管掌を任として、吉見丘陵周辺に移住した渡来系氏族であろう。吉志(吉士)はもともと『コニキシ』『コキシ』(百済や高句麗の王)と同語であって、新羅の官位の仲でも『吉士』の官号があるが、『もと韓国より帰化居る者をこの品になしと見ゆ』(『古事記』)とあるように、早くわが国に渡来した渡来系氏族であった。もと難波吉志として一族をなしていたが、やがて各地に分住し、居住地や職名を冠して、三宅吉志、飛鳥部吉志、日下部吉志など、さまざまの吉志姓を名乗るようになっている。」
さらに、新羅系渡来氏族・難波吉志氏の本拠地である難波との関連地名に焦点を当てる。「最近、横見郡周辺―比企地方から、古代難波とのかかわりが想定される古地名が多く検証されてきた。たとえば、比企郡都家郷(とけごう 東松山市)や渭後郷(ぬのしりごう 滑川町)は、摂津国西成郡の古地名と関連し、男衾郡榎津郷(えのつごう 寄居町周辺)は、大阪市住吉区周辺に比定される摂津国住吉郡榎津郷とのかかわりが推定された。横見郡高生郷(たかおごう 吉見町)は摂津国高上郡との密接な関連が想定される郷名であった。」
金井塚良一は「吉見の百穴」でつぎのように述べる。「難波吉志は、また屯倉の管掌にも長い経験をもっていた。難波屯倉を中心にして、屯倉の税を主掌していた吉志氏の実務的な能力は、屯倉設置に積極的な姿勢を示した推古朝にとって、きわめて有用な氏族となったことだろう。おそらく推古期(西暦600年前後)に盛んに設置された屯倉の管掌者として、吉志集団は各地に派遣されて活躍したにちがいない。前述した摂津国や河内国で、また武蔵国でも、郡司クラスの職掌についた吉志一族が多かったのは、吉志集団が、このような『新しいミヤケの経営に参加することを通じて、複雑な在地の豪族との交渉にきたえられ』、さらに『土着の豪族としての地盤をきづいていった』からであろう。」
「推古期に推定された吉志集団の活躍は、横渟屯倉の設置時期と符合した。吉志集団が横渟屯倉の管掌者として、この時期に北武蔵に移住した記録はないが、『続日本紀』や『続日本後紀』あるいは『類聚三代格』に登場した飛鳥部吉志五百国や壬生吉志福正の伝承は、吉志集団の北武蔵移住がかなり古く、おそらく推古期(西暦600年前後)までさかのぼる可能性を十分に示唆していたのである。難波吉志氏の屯倉経営の実績と、推古期に推定された吉志集団の急激な台頭を併せて考えると、吉志集団が、横渟屯倉の設置とともに、北武蔵に移住した可能性はもはや動かしがたくなる。摂津国の郡郷名と共通した高生郷や都家郷は、古代難波の吉志集団と関連していた。ことに屯倉と密接にかかわった高生郷や、『迎日の土地』を意味した都下郷と比企郡都家郷の、地名設定の類似性は、これらの郷名が、難波を本拠とした吉志集団と直接関係する郷名だったと想定せざるをえなかった。」
なお、原島礼二は「大和王権の変動と古代武蔵の世界」で質問に答えて「私は今までの意見に従って、東松山に近所の吉見町に横渟屯倉があるというふうに考えてきたのですけれども、最近、国学院大学の鈴木靖民さんが、あれは『ヨコヌ』であると言っておられます。“N”である。吉見町は、昔『ヨコミ』といって“M”ですね。この“N”が“M”に変わるわけがないというのを有力な根拠としておられますが、私もその可能性が高いのではないか、つまり多摩の「横山」の方が可能性もかなり大きく見ておいたほうがいいと考えます。埼玉県に屯倉があったことは、他の資料からも分かるのですけれども、横渟屯倉が今の吉見百穴のところだけととらえるのは、考え直した方がいい。」と自分の意見を修正している(「武蔵国造の乱」大田区立郷土博物館編 1995年 東京美術)。だが、“M”が駄目なら、“YAMA”も駄目なのではないだろうか。金井塚良一の「吉見の百穴」の評価は一に横渟屯倉との関連の有無にかかっている。
このように比企地方を位置づけたが、改めてこの地方の位置関係を別の角度から見てみよう。関東平野の現在埼玉県に当たる地域は古代には、利根川、荒川、入間川の流域が常に変わり、たくさんの湖沼地帯に覆われた湿地帯が多くの面積を持っていた。その中央部分に大宮台地が浮かび、北の端には行田のさきたま古墳群、南の端に近くには氷川神社が立っている。これに対して比企・入間地域は古代より開けた地域である。開いた主力は渡来系の人々である。武蔵国21郡のうち、7世紀に幡羅郡(はらぐん 現熊谷市、深谷市)、その8郷のうち上秦、下秦、幡羅郷は新羅系渡来氏族・秦氏の名から付いた郷である。横見郡は同じ新羅系吉志氏が600年前後に屯倉の管掌者として移住し、その勢力は東上し後裔である壬生吉志福正は男衾郡の大領となって富を集積し845年には国分寺7重の塔を己の財力のみで再建している。758年には新羅人74人を武蔵国に移し、入間郡を割いて新羅郡(和光市、志木市、朝霞市、新座市)を置いている。新羅系といえば708年に秩父郡で和銅を採掘した金上旡も新羅系である。685年には百済僧尼23人を武蔵国に移住させている。
神奈川県大磯に上陸した高麗若光たちが入間郡に入植し、新羅系渡来氏族によって開墾が進められた。716年 霊亀2には駿河国以東の7カ国の高麗人1799人を武蔵国に移して高麗郡(日高市、鶴ヶ島市、飯能市)を置いている。
武蔵国が東海道ではなく東山道に位置づけされていた時代(771年以前)には古代の幹線道路東山道武蔵路は入間地域を経て上野国府から武蔵国府に通じていた(この線路は後の鎌倉街道上道として利用された経路と重なる)。近年この古代道路跡が所沢市や川越市的場若宮遺跡、同女堀で発掘されている。吉見町市野川左岸の沖積低地上に9〜12メートルの道路跡(西吉見古代道路跡)が発見され、古代東山道武蔵路の一部なのか、それとも比企郡、横見郡、埼玉郡の郡家の延長線上にあることから郡家と郡家とを結ぶ伝路とみるのか意見が分かれている。が、吉見街周辺が古代にあっては重要地点であったことをうかがわせる。この古代の道路をたどって行けば、横見郡と武蔵国府とは思いのほかに近いのである。(2007/1/4)