楽書快評
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書名 戦国の城
著者 埼玉県立歴史資料館編集
初出 2005年12月 高志書院
 武蔵国の北半分を占める埼玉県には140程度の城跡が残っている。そのうち、今回取り上げられた比企地方は17%(23城)も占める。これは鎌倉時代以降、政治文化の中心が鎌倉、あるいは小田原にあったため、鎌倉時代にあっては鎌倉街道上道(旧東山道武蔵道)が通る要諦の地に城が築かれたのである。ここでの特殊性を踏まえて戦国の城の課題に迫ろうとしたのが2005年2月に開かれたシンポジウム「検証 比企の城」(主催 埼玉県立歴史資料館)である。これをまとめたのが本書「戦国の城」である。優れた問題提起が行われている。例えば監修した藤木久志は「戦国時代の城と村」において次のような問題提起をおこなっている。
 「15世紀後半に、日本中世に内戦(戦国)の時代が始まり、その内戦のなかで、危機に対応して戦国の城が造り始められる。一方、その内戦とともに、村は滅びたのか。そうではなく、新たな戦国の城の周辺に、村が大きな移動を始めたのではないか。もしそうなら戦国の城というのは、その初めから、内戦のなかの地域の危機管理センター、という役割を負わされて成立してくるのではないか。戦国時代というのは、つねに内戦の危機に備えて『身構えた社会』の始まりであり、城は内戦の社会の生命維持装置(サバイバル・システム)として機能していたのではないか。」という。城から遠い在地ではどのように掠奪や人攫いから逃れたのか。「山入り」である。1568年 永禄11 武田信玄が鉢形城へ侵攻したのに対して、城主北条氏邦は山入りして金尾、風夫、鉢形、西之入の小屋に篭ることを指示している事例を示している。比企の杉山城から500メートルほどの嵐山町大字杉山谷ッに「村の城」とでも呼べる山城の跡があるという。軍事拠点としての側面だけではなく、戦乱の時代に領民の危機管理という側面にも言及した論点を提出したのち、比企地方の城の特色として15世紀後半画期論をめぐったシンポジウムを6点に絞って論点整理を行っている。「@まず比企三城の考古学による発掘の成果が、杉山城をその典型として、15世紀後半を比企三城の大きな画期とみなしていることである。A比企周辺でも、鉢形城など石積みの城の出現が、15世紀後半と考えられる。B広く武蔵の平地城館=方形館の展開にも、15世紀が大きな画期をなしている傾向が認められていることである。C擂鉢を主体とする瀬戸美濃製の陶器の出土数が、埼玉県内のいくつもの城跡で、15世紀後半から急増する、とみられていることである。D旧鎌倉街道に代わって、鉢形城を大きな焦点とし、小田原や江戸を結ぶ新たな二本の街道が、15世紀後半から登場してくる、とみられていることである。E相模を本貫とする上田氏が、松山城の城主として比企地方に本格的に登場してくるのも、15世紀後半以降のこと、とみられていることである。」本書にはたくさんの15世紀画期をめぐる論考があるが、興味を覚えたいくつかについて述べてみたい。
 「東国の武士居館」(橋口定志)では武士の館として土塁・堀をもつ堀の内は、平安末から始まるのではなく13世紀末から14世紀前葉からであり、堀を流れる水の水利権を梃子として農民支配を行ったという「堀の内体制論(小山靖憲)」を批判する。嵐山町の大蔵館(伝源義賢居館跡)、河越館(川越市)を事例としてあげている。さらに、方形館が灌漑機能を持つ堀を備えて、在地支配を本格化したのは15世紀中葉・戦国時代初期ではないかとの視点も述べている。
中世関東街道略図 「中世東国の街道とその変遷」(齋藤慎一)は大変興味ある論考である。「関東地方において街道を問題とした際、鎌倉街道は当然のごとく検討の対象として浮上する。周知のとおり鎌倉街道は鎌倉を中心に各地を結ぶ街道の総称である。各地の御家人が鎌倉に参上するために整備され、大きくは上道・中道・下道があったとされる。上道は武蔵道とも呼ばれ、武蔵府中・掘兼・笛吹峠・比企・児玉を越えて上野国に至り、信濃国に向かう道である。埼玉県及び東京都域では古代の東山道と平行している。・・これら鎌倉街道のうち、鎌倉街道上道が関東平野を貫く重要幹線であった。・・・街道はさまざまな要因で変遷するはずであり、変遷を把握することにより、その要因が理解でき、さらに地域社会の変化を浮き彫りにできると考える。」ここで鎌倉街道上道を扱う際に上野国への経路(上野線)のみに注目してきたこれまでの視点を広げ、下野国への経路(下野線)の重要さを明らかにしている。資料を引き合いに出しながら「武州国府・村岡・足利などの鎌倉街道下野線の要衝の地名が散見するが、ともに『長井・吉見』が登場する。長井は長井の渡の武蔵国側の地点であり、吉見は現在の吉見町である。両所は下野線の通過点と考えられる。この街道の重要性を示すかのように、吉見には御所という地名がある。同所には息障院が所在する。同寺は伝承では応永年間に現在地へ移転してきたとされる。本尊は木造不動明王坐像である。また同所には源範頼館跡の地という伝承もある。さらに付近には中世遺跡の御所遺跡もある。南北朝時代、能登国守護となり北陸で活躍した吉見頼綱・氏頼はこの武蔵国吉見を名字の地とし、鎌倉時代は同地を領していた。彼らは源範頼の後胤であった。吉見 息障院したがって、範頼館伝承地や御所の地名があることはそれなりに意味があることになる。そして吉見氏がこの地を領していたということは、源氏一族が鎌倉街道上道下野線に沿って、吉見・新田・足利と居を定めていたことになる。新田・足利は鎌倉幕府以前より領していたわけであるが、吉見氏の吉見は少なくとも頼朝挙兵以後の拝領である。街道上に源氏が並ぶという配置は、源範頼一族が吉見を領することに政治的意味がこめられていたようにも思える。・・・以上、この二点の文書から長井―村岡―吉見―高坂―入間河という鎌倉街道上道下野線の具体的な経路が復元できる。この経路は国道407号線に沿っており、古代の東山道とも関連する。」と一つの見解を出している。長い引用であるが、注目したい。
 もう一つの注目する論点は、時代によって道は変遷するという具体的な指摘である。鎌倉街道上道は廃れ、二つの幹線がそれに代わったというのである。その一つは「山の辺の道」である。後北条氏の上野国侵略への拠点・鉢形城が焦点である。鉢形城は鎌倉街道上道から離れた位置にある。鉢形城から北条氏の都である小田原に至る新規の街道が開かれたと齋藤慎一は述べる。街道はほぼ八高線に沿って伸びる。鉢形城大手門の南続きから腰越城(小川町)、青山城(小川町)、小倉城(玉川村)を経て毛呂・飯能・勝沼(東京都青梅市)・由井(八王子市)・椚田(八王子市西方)・当麻(相模川中流の交通上の要衝)・糟屋・松田を経て小田原に至る山の辺の道である。もう一つは川越街道である。享徳の乱を境に江戸を拠点とした街道が重要になるとして扇谷上杉氏の拠点である江戸と川越を結ぶ街道はそのまま同じく扇谷上杉氏の拠点松山城に結びついていた。川越街道は早い時点では1487年 文明10に「鎌倉街道上道下野線に接続していたと考えられる」としている。吉見は比企丘陵の東側にあり、下野線はここを通っていたが、松山城は吉見から西方2.5kmにあり、松山城の戦略的重要さが増すとともに、丘陵東側を通過する経路が西に移動し比企丘陵を南北に横断して河越城の北の守りである松山城を通る経路に変わった、と推論している。この変更された経路は後北条氏にも引き継がれていった。
 この松山城については大田賢一が「松山城跡」、梅沢太久夫が「武蔵松山城主上田氏と松山領」を載せている。自分の関心から「武蔵松山城主上田氏と松山領」を見てみたい。上田氏はもともと「相模国守護代であり、関東管領上杉氏の家中にあって長尾氏・大石氏・太田氏と並ぶ重臣であった」(梅沢太久夫)。神奈川県平塚市付近を基盤としていた上田氏は平一揆の鎮圧後、平一揆の関係者の領地である比企地方へ扇谷上杉氏の武蔵国支配のために進出してきたのである。藤木久志は「上田氏というのはもともと相模(鎌倉ほか)に拠点を持ち、太田氏等と並ぶ、守護代クラスの扇谷上杉氏の重臣であり、扇谷の武蔵支配の先兵として比企地方に在地性を扶殖し、扇谷滅亡後も、後北条氏の下で『他国衆』として本領を安堵され、松山領に支城主の地歩を保った領主である。つまり、松山にとって上田氏はもともと土着の在地領主型の城主ではなく、上級権力の変動に流され易い、いわば在番城将型の性格と持った城主であった訳である。」と性格付けしている。他国衆であるがために、後北条氏は「松山領全体では、松山城下の狩野介、松山宿の松田氏(代官岡部氏)、奈良梨の鈴木氏、小倉の遠山氏、木部の高柳氏と北条氏直轄の支配地や家臣の配置が確認されている。」(梅沢太久夫)
 これを梅沢太久夫は「@上田氏は関東管領上杉氏の縁戚に連なる家門で、相模守護代クラスの地位を持つ扇谷上杉氏の重臣であった。A上田氏の比企地方における出現は15世紀後半と見られ、小河に拠点を持った上田氏が確認される。B15世紀末〜16世紀初頭は、相模の実田城を拠点とした上田氏が確認され、日蓮宗の檀越となった上田氏として、四世日叡聖人にちなんだ法名を持つ上田一族の存在が認められる。16世紀初頭では、後北条氏に合力して、権現山城に立てこもった上田蔵人入道と、上杉与党として活躍した上田豹徳斎の二系統の上田氏が確認される。C16世紀中頃には、扇谷上杉氏の河越城将として、再び蔵人系上田氏が復活している。以後、相模系の上田氏は記録されない。D上野介・蔵人・能登守系と見られる上田氏は、天文15年の川越夜戦以降に、松山城主としての地位を確実なものとしている。E16世紀後半になると、後北条氏の支配と監視の下で、松山城支配を委ねられることが窺われる。F16世紀末葉、上田氏の支配が確実になった段階で、長則は朱印を使用し、城下や松山宿の支配権を行使している。G江戸初期は、上田氏の最終段階である。松山落城以後、浄蓮寺において存在が確認され、上田案独(斎)日円(後の善次郎)・上田安独斎日忠は僧となっていることを窺わせる。H武蔵における上田氏の本領は、比企西部の『大河原谷・西之入筋』を基本とし、武蔵松山領全体の支配が完成したのは天正年間に入ってからと考えられる。」とまとめている。
 「『杉山城問題』によせて」(松岡進)は15世紀画期論にかならずしも同調してはいない。「すでに峰岸純夫は、明応7年の大地震津波の被害の大きさにふれる中で『この地震が当時活発に展開されていた太平洋側の水運に与えた破壊的影響について考える必要があると思う』『それ以前の展開を以後に引き続いて認めることは困難であろう。15世紀と16世紀の断絶は甚大なもので、その克服は長い期間を要し、極言すれば近世に至るまで15世紀の旧状への復帰は不可能であったと考えられる』と指摘し、また武蔵・相模への流通がこの時期に急減したかに見える点にも言及されている。綿貫友子が16世紀には伊勢からの海運と伊豆や駿河との結びつきが強まる(換言すると、江戸湾との関係が目立たなくなる)と指摘している点も重要であろう。また、品川の有徳人として著名な鈴木氏が16世紀初頭ころ鳥海氏に取って代わられ、引き続く時期、江戸湾の流通・交易をになった商職人たちの没落が、安房妙本寺を里見氏接近に踏み切らせた点を佐藤博信が論じている。」
 このような優れた論考が見受けられるが、藤木久志が語った領民の生命維持装置としての「城」の意義について検証した論文が見受けられないのが残念である。「城」を支配者のものとしての側面から論じることだけでは不満である。在地の人々の信頼なくしては敵味方が相乱れる戦国の世にあっては、領国経営は長続きしないであろう。 
※ 中世関東街道略図は、齋藤慎一の「中世東国の街道とその変遷」に掲げられていた第1図鎌倉街道要図の上道と第3図戦国期街道要図の一部とを併せて略図とさせて頂いた。(2007/1/14)
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