楽書快評
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0145
書名 沢庵
著者 水上勉
初出 1986年9月 学習研究社(1997年 中央公論新社)
 戦国末期から徳川時代初期にかけての禅僧沢庵の伝記は、水上勉の暖かいまなざしに覆われている。沢庵の生涯は権力に抗して臨済宗の法統を守ることと、そのことを含めて一切の関係を絶って一僧侶として自己を極めたいという姿勢の間にゆれている。「沢庵」を読んでそのような印象を持つ。しかもそのゆれを沢庵門人・武野宗朝の「沢庵大和尚行状」「東海和尚紀年録」に基づきながら水上勉は全て認めて小説化した。
 沢庵は俗名を秋庭氏といい、但馬国出石の出身である。「沢庵は天正元年(1573)12月1日に、但馬国出石邑(現在の出石町)に生まれた。いまから約410年前である。姓は原氏、三浦介義明の後裔で秋庭の一族、父の名は能登守秋庭綱典、母は牧田氏。父は出石城主山名宗詮に仕えた代々の武士であった。」と水上勉は生まれを紹介している。父の仕えた山名氏は清和源氏新田氏の流れで上野国多胡郡山名(群馬県高崎市山名)を名字の地とする。足利尊氏に従いやがて山陰地方の大名として、また足利幕府の大大名(四職)の一つとしての地位を築き、山名氏清の時、全国68国中11カ国の守護となり「六分の一殿」と称されたが、足利義満によって危険視され明徳の乱によって但馬、伯耆、因幡国に押込められた。しかし、山名持豊(宗全)が赤松氏の起こした嘉吉の乱で功があり、強大化する。応仁の乱のときの西軍の主将となったのはこの山名持豊(宗全)である。しかし、戦国時代を引き起こした応仁の乱は、山名氏への下克上も引き起こしたのであった。沢庵の父秋庭綱典が仕えた山名祐豊(宗詮)は山陰に台頭した尼子氏や毛利氏の狭間で、そして織田信長が台頭してくるとその武将豊臣秀吉との間で家名を守るために努力をおこなった。生野銀山を発見開発したのは山名祐豊であり、ために織田信長の注目するところとなって滅ぼされたとの見方もできる。
 このような格式ある守護大名家が下克上の世にあって滅びていく様を、そして父秋庭綱典の悲運を沢庵は見て育ったのである。秋庭氏が山名氏とどこで結びついたのか。相模国三浦半島を名字の地とする桓武平氏三浦氏、その庶流秋庭重信(三浦義明の弟津久井義行の三男津久井義光の系譜ではないかとの指摘もある。少なくとも総領家の義明系ではないと思われ、水上勉の見解と相違する。また姓を原氏とするとは何をさしているのであろうか。疑問がある。)は、承久の乱後、鎌倉幕府から戦功により備中国有漢郷の地頭職に補せられた。新補地頭の一人であった。秋庭氏の名字の地は三浦半島近く相模国山内庄秋庭郷ではないだろうか。現在横浜市戸塚区秋庭町である。沢庵が亡くなった東海寺のあった品川は武蔵国ではあるが、相模国秋庭郷は同じ東海道筋にあり、思いのほか近い。沢庵本人は知らなかったであろうか。
 秋庭氏はその後、備中国中央に位置する松山城(岡山県高梁市)を築き、秋庭元明は備中国守護細川氏に従って中央政界に進出、摂津守護代などを務めている。応仁の乱では、京都・摂津で西軍山名勢と戦い、応仁元年(1467)9月には京都・東岩倉山に三千騎を率いて陣を敷き、山名勢三万騎と戦ってこれを撃ち破った。その後も備中国よりは中央政界で活躍し、秋庭元重は、幕府管領政元の側近として重用され、その奏者番を務めた。細川高国はその細川政元の養子の一人である。細川高国の娘が山名豊定(祐豊の弟)に嫁ぐときに付いてきた家臣団の一人に秋庭氏がいたのであろうか。結びつきの推測である。
 父秋庭綱典は天正7年(1579)、出石にある宗鏡寺(臨済宗東福寺派)に7歳の沢庵を連れて行った。10歳になると唱念寺(浄土宗)へ移る。しかし、他力本願の浄土宗にはなじめなかったようで、天正14年(1586)宗鏡寺の塔頭勝福寺に入り、希先西堂(きせんせいどう)の教えを受ける。天正20年(1592)、京都大徳寺の薫甫宗仲(とうほそうちゅう)に随って大徳寺三玄院に入る。薫甫宗仲の師・円鑑国師春屋宗園(しゅんおくそうえん)の教えを受け、春屋から宗彭(そうほう)という号をもらう。このような仏道に息子を入れる父綱典の気持ちを次のように水上勉は描く。「山紫水明の閑境ではあるが、大きな太鼓を打てば全町にひびくぐらいの谷間なので、小大名ゆえの不運な武士たちが思い思いに離散してゆく有様は、よそごととはいえず沢庵の身にも沁みわたったろう。・・・仏道はつまり、沢庵のために運よくひろがっていたろう。仏法は、このめぐまれた少年の前にあたたかく門をひらいてくれていた。このあたり、父綱典が子に托した道の確かさを思わせる。地方大名につかえる武士の一生ははかない。そのはかない生涯を見きわめてくれる子を、綱典は育てたかった。それには、武に入るよりも、仏法に入った方がいいのである。出世の道も、その人間次第で中央へひらけもする。主君を失った男が、つまり、愛児を僧にすることで、自分の夢を賭けたのだ。」「冒頭に私は沢庵の生涯は、幕府権力と自由なる禅思想のはざまを苦しみ生きたといっおいたが、苦しみ生きるその骨格はもうすでに、この少年期に培われていたと想像されるのである。正しく波乱万丈の運命がこの人の将来に予兆される。」
 波乱万丈とは紫衣事件に象徴される。
 「慶長14年、大徳寺の長老玉甫紹j(ぎょくほじょうそう)は、沢庵を後陽成天皇に推した。詔をうけて沢庵は大徳寺153世の住職となった。・・当時の大徳寺入山は、出世入院といい天皇の詔を得なければならなかった。・・・式がおわって、沢庵は御所に参内。清涼殿で後陽成天皇に謁し住山わずか3日で退山の鼓を打ったあと一偈をのこして退座してしまうのである。」37歳の沢庵は、雲水の身であるから名刹に住むような生活は耐えられないというのである。この背景を徳川幕府による宗教統制への反発があると水上勉は見る。「大徳寺住職の命をうけ、晋山したのはいいが、たった3日でその座を投げ、堺へととっと帰る行動には、これら諸法度成立の気運に、沢庵はわずらわしさを感じていたのだろう。」この後、堺の南宗寺や故郷の出石の庵で放浪して暮らす。その間に徳川幕府は幕府中心の宗教制度を固めていった。寛永の法度である。寛永4年(1627)の7月に天皇の勅命で建立された妙心寺、大徳寺に布達された。「元和以後に授けられた五山十刹への入院出世の効力をなくさせる最後の宣告」と水上勉は述べている。朝廷が直に綸旨を下すのは幕府の威信が失われるというものだ。大徳寺大仙院に属する沢庵宗彭、玉室、江月が連名で幕府への反論を京都所司代に提出した。幕府は江戸表に3名を呼んで詰問することとなった。寛永6年閏2月、沢庵は江戸に着いた。7月25日判決があり、沢庵他配流が決まる。沢庵は出羽上山土岐頼行へ身柄預りとなった。紫衣事件と呼ばれ、大徳寺・妙心寺長老が流罪にされただけではなく、後水尾天皇の譲位も引き起こした。
春雨亭 出羽上山での暮らしは必ずしも苦しいものではなかった。「幕命によって、沢庵の身柄をあずかった城主土岐頼行は文武のたしなみの深い人で、仏心もあつく、沢庵を預かれとの幕命に驚天して喜んだという。」「寛永9年60歳まで、沢庵は、頼行がわざわざ新築して迎えてくれた春雨庵という離れ屋で、悠々閑居の身を送った。」秀忠が病没して大赦が出る。配流赦免の知らせにも沢庵はざれ歌を作ったという。「御意なればまゐりたく庵思へどもむさいきたなし江戸はいやいや」と。三代将軍家光は柳生宗矩の導きで沢庵と会見。京でも堺でも故郷出石でもなく、江戸に止まることを強いた。品川東海寺を建立し、沢庵を生涯住まわせた。その間に沢庵がしたことは大徳寺、妙心寺に対して昔日の如く出世住山の儀を戻すことを働きかけ14年ぶりに寛永の法度から解放させた。
 正保2年(1645)。73歳。品川東海寺において亡くなる。辞世の偈は「夢」。そして誰も沢庵の弟子と名乗ることを許さず、野外に身を埋め、塚も墓を作ることも拒み、年忌を作ることも認めぬ遺言を残した。「出家のわざもいやになり申し候て、袈裟をぬがざるばかりの出家」とは沢庵の心情であったと水上勉は考えている。
 戦国時代、徳川幕府創世記にかけて、多くの僧侶が権力に迎合した。いつの世でも当然のごとくである。他方、宗門改めに見られるような思想統制に参加することで寺門をも守り、生活の糧を得るばかりではない僧侶たちもいたのであろう。水上勉は鈴木正三にそれを見ている。沢庵はそのどちらでもない。「和尚の73年の波乱に富む生涯は、権力と仏法のはざまを苦しみ生きる修羅だったと思える。」と水上勉はまとめている。水上勉の「沢庵」を読む限り同じ印象を得た。
 但馬国出石の秋庭氏に生を受けた沢庵のこのような生涯は、父秋庭綱典が求めていたものであったのだろうか。(20073/4