楽書快評
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書名 江戸東京《奇想》徘徊記
著者 種村季弘
初出 2003年12月 朝日新聞社(雑誌「サライ」連載2001-2002
 江戸と呼ばれ今日、不当に東京と呼ばれる地域を種村季弘が《奇想》をもって徘徊した記録である。2007年3月10日、友人二人(Tさん、Mさん)とその一部をなぞって徘徊してみようと、「25 大塚坂下町儒者棄場」を中心に歩いてみた。
古賀精理先生墓 まず儒者棄場、この奇妙な言葉に惹かれた。江戸時代の儒学者が、仏式でも神式でもない儒教の葬儀をおこなった。種村季弘は大町桂月の「東京遊行記」(1906)を引用して、儒葬というのは「その様、屍骸を棄てゝ帰るが如きを以てす」、であるというのだ。だが、種村季弘はこの見解に疑問を発している。「儒教では厚葬といって、棺のうえにまた槨という外箱をかぶせ、これが身分によって何重にもなったりする、そして棺と槨との間にさまざまの豪華な副葬品を入れて手厚く葬るのである。」かえって道教のほうが質素な弔いであると述べる。さて、江戸の儒学者がどのような儒葬をしたかは不明であり、また儒者棄場なる言葉がいつ頃から用いられたのかも不明である。仏葬を見慣れた人々からみれば違和感を抱いたことが今に伝えられたのであろう。確かに「論語」に描かれた世界は弔うことに厚いと思える。したがって儒葬が棄てるが如きものであったとは断言できないであろう。ただ、日本に入ってきて儒教が変質した部分もあろう。仏教を批判して定着してきた江戸時代の儒教が、合理的思考を担ったとも私は考えている。したがって、棄てるが如き葬儀であった可能性もあったのではないかとも、思う。もっとも江戸初期、幕府の宗教政策を批判して配流された臨済宗の沢庵和尚は自らの屍骸を人知れず野辺に埋め、墓を立てるな、葬儀をするなと遺言を残した。棄てるが如き振る舞いは儒者のみではない。
野菫 場所は護国寺裏である。地下鉄「護国寺」で二人と待ち合わせをし、護国寺、豊島岡御陵地をめぐって、吹上稲荷神社で墓地の鍵を借り、「大塚先儒墓所」に入る。墓所は殺風景であるが、幾つかの墓群に別れ下草もしっかりと刈られ野菫も咲いている。ここには室鳩巣や寛政の三博士、柴野栗山、古賀精理、尾藤二洲、そして岡田寒泉の墓も残されている。案内板によると寛永の頃、二代将軍秀忠、水戸頼房の儒師・卜幽人見道生の邸址であり、寛文10年(1670)に道生の遺骸を邸内に葬ったことが起こりであると、述べている。探したが人見道生の墓は見当たらなかった。してみるとここには現存する有名な儒者の墓以外にも儒者が棄てるが如く葬られていた可能性がある。
 種村季弘は21世紀初頭に見た光景を次のように述べる。「かなり広い敷地に草ぼうぼうと茂り、昼なお暗い草地のあちこちにパラパラと墳墓が立ち並んでいる現状もそのせいであろう。荒涼として、しかもどこか近代以前の墓地らしいゆとりがある。おそらくここは東京でいちばん贅沢な部類の墓地ではるまいか。
 永井荷風の「断腸亭日乗」の儒者棄場(昭和13年3月26日付)の記事を種村季弘が紹介している。「晴れて風甚寒し。午後大塚坂下町儒者棄場を見る。往年荒涼たるさま今はなくなりて、日比谷公園の如くに改修せられたり。路傍に鉄の門を立て石の柱に先儒墓所と刻したり。境内に櫻を植えたるなど殊に不愉快なり。」大正3年に墓域が荒廃していたのを整備し、東京市に寄付される以前の「往年荒涼たる」状態はどのようであったのだろうか。同じく種村季弘が引用する大町桂月は「樹木の間、萱茅の裡、墳墓、累々として相並べり。」「当時漢学の隆盛なりしことを物語るもの也。」墳墓累々として相並べる姿を種村季弘は「本場の儒葬を道葬と取りちがえるほどにきまじめに真に受けるまでの、儒教崇拝という時代背景があってこその儒者棄場だから、時代が下がり漢学熱もさほどのことがなくなれば、儒葬もすたる。いつそ廃される。いずれにせよ落ち目一方になっていく儒学関係者たちの墓はこれ以上増えることはない。」と思いを語る。永井荷風には「不愉快」なほどに近代的に整備された儒者棄場は、大正時代にまで知られていた儒者のみの墓所として整備されてしまった可能性が高い。こうした整備を介して儒者棄場の成り立った江戸儒学の精神も消し去っているともいえる。
 種村季弘は東京の死者の領域に思いをはせる。「監獄(巣鴨監獄―池袋サンシャインシティ)から根津山から、周囲のすべてがさま変わりしてしまったなかで、護国寺から儒者棄場、雑司が谷墓地、鬼子母神にかけて、ベルト状にえんえんと延びる死者の領域だけはほとんど変わりがないのが心強い。それが池袋の、どきつく脂ぎったネオン街のすぐ裏手にはりついているのがまた面白い。色即是空。空即是色。諸行無常とはこのことか。」
鬼子母神の大銀杏 私たちも護国寺を通り、儒者棄場から福田稲荷を経て、雑司が谷墓地に至る。雑司が谷墓地では島村抱月・松井須磨子の墓のすぐ脇にあるTさんの家のお墓をお参りした(3月10日の東京大空襲でたくさんの親族を亡くされた)。その後も音大脇の路地をまわりながら鬼子母神を通り、都電荒川線に乗って早稲田まで来て、早稲田大学構内囲まれた観音寺では先代の住職の墓にお参りをした。先代の住職とは三人の共通の友人であった。亡くなって5年の月日が経ち、偶然にも境内を掃き清めていた子息にお会いすることができた。高校入学した当時に父親を亡くした少年を、5年の歳月はしっかりとした若者に変えていた。その後は、高田馬場駅まで歩いたが、その道は「かつての古本屋街」としか言いようのないほど様変わりした道であった。徘徊の最後は種村季弘にならって三人は、池袋界隈で「浅酌に及んだ」。生者と死者とがそれぞれの棄場から境目を越えて語り合うようなそんな一日であった。(2007/3/10)