書名 石蕗の花
著者 平川弥太郎
初出 2006年9月 新人物往来社
「石見国の名族吉見氏の滅亡」と副題のある歴史小説である。毛利氏によって滅亡させられた源氏頼信流範頼の後裔吉見氏の話である。滅亡させられた石見吉見氏の嫡流ではなく、その一族でありかつ有力家臣の上領(赤木)太郎左衛門を語り部としたために、その悲劇性は悲惨な場面として現れてこない。滅亡という重い悲劇を扱いながら、陰惨な物語となっていないところが好ましい。
武蔵国横見郡吉見を名字の地として生まれた吉見氏は源頼朝の弟蒲冠者範頼の後裔と伝えている。範頼の孫為頼が武蔵国横見郡吉見に住して吉見を称した、といわれている。外曾祖母比企禅尼から、吉見庄を分与され、範圓の子である為頼に至って吉見を名字とした、とも述べられている。為頼の子為忠は能登国に移住し、武蔵に残った嫡流の義世が謀叛の罪で北条氏によって断絶したことで、能登吉見氏が吉見一族の惣領家になったと伝承されている。以後、吉見氏は能登を中心に発展し、南北朝時代には足利尊氏に属して能登守護に任じられたこともあった。その庶流吉見頼行が蒙古襲来に際して、1282年8弘安5)、幕命によって石見国を防御するため能登から石見に下向したことが、石見吉見氏の始まりとされている。吉見氏は津和野を中心とし石見国西部を基盤とした国人領主となった。その後、長門・周防両国を守護した大内氏(大内氏は百済の聖明王の子琳聖太子が周防国多々良浜に着岸し、その子孫が同国大内村に住み、以来、姓を多々良、氏を大内としたと称している。)に属するに至った。1551年(天文20)、周防国守護代陶晴賢が大内義隆を滅ぼした。大内義隆の娘を室にしていた吉見正頼は陶晴賢討伐の兵を挙げ、これに毛利元就も協力し厳島の戦いとなった。毛利氏が大内氏に取って代わると吉見氏もこれに隷属するようになった。時代は変わり元就から輝元に家督が移っていった。そして、輝元の時代に吉見氏の滅亡が待っていた。
最後の吉見氏総領を務めた人物を「15歳の歳を迎える頃から、長次郎は身長も伸びて筋骨も逞しくなったが、奥座敷に面した庭や御館の庭に自ら石蕗を植えて、その艶やかな葉やか細い黄色の花を愛でる面もあった。この優しさは当主になったいまも持ち続けている。家中の者は長次郎への愛おしさや親しみを込めて陰では『石蕗の君』と呼び、当主の座に就いた頃から御館を『石蕗の館』と称するようになった。と」描いている。この長次郎(広行、広長)は2度の毛利家からの出奔によって毛利家からの信頼を失い、最後には謀殺されてしまう運命の人であった。吉見広長を討ち取ったのは榎本元吉と清水景治である。このうち清水景治の父は備中国高松城主のとき羽柴秀吉によって水攻めに会い、織田信長が明智光秀により本能寺で攻め滅ぼされた折、毛利輝元との和議によって切腹した清水宗治の子息である。
西国には承久の乱で後鳥羽上皇方に味方した人々の領地が没収された。乱の鎮圧に寄与した関東御家人に西国の地頭職を分け与えた。新補地頭に任命された御家人は、やがて蒙古来襲への備えとして現地に着任することとなり、土着した後裔が室町・戦国時代に多くの足跡を残した。物語の登場人物にも多い。
能登国から石見国へ移った吉見氏に従った譜代の人々には、町野氏、水津氏、波多野氏などがあげられる。町野氏は三善氏の一族であり、波多野氏は相模国秦野出身の波多野氏の一流であると考えられ、戦国期に織田信長に攻め滅ぼされた波多野秀治とも同族とも考えられる。
吉見氏を滅ぼした毛利氏は鎌倉幕府の名臣大江広元四男・大江季光を祖とする一族。毛利は、季光が父・広元から受け継いだ所領の相模国愛好郡毛利庄(もりのしょう)を名字の地とする。毛利李光が三浦泰村の義理の弟であったことから宝治元年(1247年)、三浦一族と共に鎌倉法華堂にて族滅する。その四男経光が越後にいたことから逃れて、承久の乱で得た安芸国吉田荘を基盤として国人領主から毛利元就に至って中国地方の覇者となったのである。毛利氏の三本の矢に数えられる小早川氏は源頼朝が挙兵したときからの功臣土肥次郎実平(相模国)が西国の守護であった初期に得た所領の安芸国沼田荘地頭職を基盤とした一族であった。吉川氏は南家武智麻呂の後裔を称した。駿河国の御家人で、梶原景時を討ち取った一族として有名である。新補地頭として安芸国大朝庄を得て国人領主として台頭した。
また、「五郎太石」の章で描かれた初期毛利家中の人々、例えば天野氏は藤原南家工藤氏の一族といわれ、伊豆国田方郡天野郷を名字の地としている。天野遠景は源頼朝の旗揚げに加わった。安芸国志芳庄に天野顕義、志芳堀庄に天野政貞が入部した。この志芳堀庄の天野氏は萩城(元々は石見吉見正頼の隠居城としていた指月城)工事のトラブルから石見国人出身の益田氏と争った。そして、毛利輝元によって討ち取られた。天野五郎右衛門の討手は桂三郎兵衛綱元、三浦平右衛門尉重棟である。桂氏は毛利氏の庶流であり、三浦氏は三浦一族の平子重経が、1180年(治承4)の源頼朝の旗揚げに参加して活躍、1197年(建久8)、仁保荘・恒富保の地頭職に任じられた。平子重経は仁保荘に下向、以後、重経の子孫が仁保荘の地頭職を相伝した。平子氏、仁保氏とも三浦氏の一族である。平子氏は名字の地を武蔵国久良岐郡平子郷とする。
この築城工事のトラブルの争いに巻き込まれた熊谷氏(武蔵国熊谷を名字の地とし、一の谷の合戦で平敦盛を討った次郎直実が有名である。)は安芸国安北郡三入庄の地頭職を与えられていた。熊谷直時の子孫は法然が直実に授けた「迎接蔓茶羅」を携えて、元冦のあった弘安以後(十三世紀後半)三入庄に下向し、大林伊勢ヶ坪城に拠った。毛利氏の安芸国の領有化の過程で、その有力な家臣となった。熊谷氏がキリシタンであったことも禍となって、輝元によって討ち取られた。幕藩体制創世記にあって安芸国の有力国人出身の熊谷氏の勢力が削減されたのには理由があった。関が原の戦いの戦後処理によって長門・周防両国に押込められた毛利氏が家臣団の減量化に手をつけたのである。石見国の名族・吉見氏の族滅もその一つである。徳川時代初期、源氏新田流を僭称する徳川家よりも源範頼の後裔である吉見氏の方が家柄は清和源氏直系に近い。本来、大江家の出である毛利氏は源氏嫡流に近い吉見氏の家臣筋の家柄でるとも言える。総領吉見広行(広長)の出奔(脱藩)はリストラのよい口実であった。
小説「石蕗の花」はこう結ばれている。「後年、御本丸橋の側にある松の大木が有倉松(ゆうくらまつ)と呼ばれ、平安古の石橋が吉見橋(よしんばし)と称されたが、有倉松の由来や吉見橋にまつわる悲劇は人々の記憶から忘れ去れた。享保年間に医者で本草学者の烏田智庵が『萩古実未定之覚』を著して、わずかにその。『古実』を伝えている。」と。してみると「石蕗の花」も後世に伝える「古実」伝承の技であろう。(2007/4/12)