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書名 芥川龍之介の夢
著者 清水昭三
初出 2007年3月28日 原書房
副題の「海軍機関学校 若い英語教官の日」とあるように、芥川龍之介が大学を出て就職した横須賀の海軍機関学校教官の日々を描いた随筆である。1916年からのわずか2年のことではあった。芥川を中心に取り巻く人々や同時代の文学者が横糸として立ち現れている。芥川龍之介の6歳の春の夢は、海軍の将校になることだったという。芥川の母方は徳川幕府のお茶坊主の家系、父新原敏三は長州藩の御楯隊に属していた。そして龍之介は芥川家に入籍したのである。妻文子の父塚本善五郎は飛騨高山出身、海軍大学校主席卒業生であり、旅順港封鎖の折に戦艦初瀬の参謀(少佐)。36歳のときに亡くなった。当時の生徒で敗戦時は相模野航空隊司令であった篠崎礒次の思い出の記を発掘したことが本書の最大の眼目である。
芥川龍之介の教師ぶりはいかがなものであっただろうか。直立不動で教える武官と違って椅子に座って足を組み、長い髪をなびかせながら横向きに座って話をする。英語のテキストには敗戦の話を使い「敗戦教官」というニックネイムをつけられている。このような芥川の自由な振る舞いを許した校長の船橋中将、川上教頭の姿勢を清水昭三は讃えている。
笑翁篠崎礒次は「芥川教授の、教え子たちの白浜(海軍機関学校のこと)卒業後の勤務先である日本海軍の実態を知りたさに、軍艦や航空隊に度々出向き海軍将校と起居をともにし、教育訓練や演習の実態を詳細に通暁して白浜教育に利用しての恩師ぶりには、生徒はもちろん海軍部内でも感銘する人が多かった。」「芥川教授の担当授業は『実用英語』であり、将来生徒たちが海軍士官として諸外国において充分自分の意思を英語で発表し、且諸外国人の英語を充分理解し得ることを目的とし、海軍将校は外交官同様にとの望みがあった。」(「芥川龍之介と元の日本海軍」)。芥川龍之介が横須賀に通うために鎌倉に居を定めた時代のことは、関心があった。また、徳川幕府の幕末の傑物・小栗忠順が開いた横須賀の海軍施設が明治政府によって転用された軍港の姿にも興味があった。篠崎磯次の回想録によって、その横須賀での教師ぶりは誠心が込められていたことが伝わってくる。このエピソードを読んで感じられたことは、卒業後の扱いに一種の危惧を芥川教官は抱いていたことではないだろうか。「芥川龍之介の夢」でも触れられていることだが、横須賀の海軍機関学校は秀才たちの集まる場所であったが、海軍の主流は海軍大学校−海軍兵学校出身者(江田島)が占め、機関学校出身者はその多くが大佐止まりの扱いであった。「罐焚き油差し」とバカにされ、艦内では上官であっても指揮をとることはできなかったという。
さらに次のようなエピソードも回想も現れる。「特に芥川教官が疾病長期入院の生徒が学業について行けずにいわゆる落ちこぼれになってはならじと、下校後遠路歩いて病院を訪れ病室での補修授業を行い、帰途は横浜駅まで歩き鎌倉に帰宅(文子夫人との新婚家庭)するという努力ぶりにその時の生徒、加納美佐雄(昭和2年中尉で駆逐艦峯風で北極海で公務死)は感激し、クラス中随一の英語達者となった。」(「芥川龍之介と豊島与志雄」)加納美佐男が亡くなる1ヶ月前に芥川龍之介は義父善五郎と同じく36歳で自らの命を絶っている。
その篠崎磯次は芥川龍之介の推薦で霞ヶ浦航空隊開設のために来日したイギリス空軍指導将校団(センピル司令団長)の通訳・連絡員として航空隊勤務となり、敗戦時には大佐として相模野航空隊司令の任務についていた。清水昭三は「敗戦教官」による、敗戦時にはどのように処するのかという教育が役立ったとみなしている。「戦争には敗けることもある、という表現そのものが少なくとも帝国日本の将校養成学校内では禁句である。連戦連勝、無敵海軍であるべき当然の海軍機関学校で、いかいに教材が他国の例にしてもだ・・・・。しかし、敗北、という事態に、将校はどうすべきか、ということは教えない。芥川は敗戦による敗軍の将のことも自由に話した。生徒が挑発されると、論争になる。こうした雰囲気は、芥川だけの教室であって、他には見られなぬことであった。」篠崎大佐が敗戦処理にGHQの参謀たちと対応しえたのは、このような教えが役立ったと清水昭三は繰り返して述べるのである。
「芥川龍之介の夢」の末には紅野敏郎(元山梨県立文学館長)の添え書き「清水さんのナマの声」がある。優れた添え書きである。
芥川龍之介の海軍機関学校時代の教師の姿が浮かび上がってくるよい随筆である。(2007/4/28)