楽書快評
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書名 吉士と西漢氏
著者 加藤謙吉
初出 2001年2月 白水社
 吉士(きし)も西漢(かわちのあや)もマイナーな渡来系氏族である。渡来系氏族の多くがそうであるように、両氏族も外交関係を中心として大和朝廷の歴史に足跡を残している。今回、「吉士と西漢氏」を取り上げた直接の理由は、吉士氏族のなかの壬生吉士についての史料としてであった。埼玉県の歴史学者(原島礼二など)のなかでは、壬生吉士は横見屯倉の設定のために、その管理者として入り込んできた氏族であり、吉見百穴と呼ばれる横穴式墓制を持ち込んだと考えられている。しかし、そもそも吉士氏族はどのような氏族なのかについては充分に論考されていなかった。吉士氏族とはどのような性格を持った氏族であり、またその一枝族である壬生吉士が武蔵国に派遣されたのはどのような経緯があり、さらに横穴墓制との関連はどのようなものなのか。
 加藤謙吉は吉士と西漢とを次のように性格づける。まず、吉士である。吉士氏族には難波吉士、草香部吉士、三宅吉士、日鷹吉士、坂本吉士、調吉士、宅蘇吉士、多胡吉士、飛鳥部吉士、壬生吉士などの名前が見える。本居宣長が説いたように新羅の官位に「吉士」があることから新羅系渡来氏族と見なされがちであるが、外交活動が大和政権と新羅とが「任那」問題をめぐって緊張している時期であることから、新羅系との見解を加藤謙吉は否定している。そして本位田菊士の指摘を受けて「難波吉士」が6世紀後半に王権に直属するトモとして再編成されたこと、彼等の渉外活動の中心が「任那の調」貢進の交渉にあり、吉士集団そのものが加耶系の渡来人の出身とみられること、したがって「任那の調」の廃絶とともに、その渉外任務の意義が失われ、それが7世紀後半の「難波吉士」解体の一因となったこと、阿倍・膳・阿閉氏ら大彦命後裔氏と「難波吉士」との交流は、大化前代から部分的に存在したが、擬制的同族関係の契機となるような阿倍氏との結合関係が成立するのは、阿倍倉梯麻呂が左大臣に就任する大化期以降であることなどの諸点を明らかにした。p95,96これが加藤謙吉が描いた吉士氏族のアウトラインである。吉士氏族の総称とも言える難波吉士の名称が示すように吉士は摂津、河内国に基盤を持ち、通常難波津に設定されていた外交迎賓施設、例えば「難波館」「難波高麗館」「難波百済客館」などに所属して、施設の運営や来日した外国使節との折衝に当たり、必要に応じて海外に派遣されたと推測している。三宅吉士が所管した「難波屯倉との関連に立てば、渉外の任務だけでなく、難波津に運漕されてきた西国からの貢納物や朝鮮諸国からの舶載品の管理・運送任務をも担当したのであろう。」「ただ、彼等は難波の地だけでなく、難波の後背地である河内国にも拠点を持っていた。」p36難波吉士の本系は石川郡大国郡喜士その周辺部に集住地としていた。そして、「任那の調」の任務が終了して氏族としての族的な危機を大和政権内で台頭してきた阿倍氏との関係強化によって乗り越える道を選び、それが大嘗祭における阿倍氏とともに踊る「吉士舞」として現れたと加藤謙吉は読み解いている。
 さてここまでは、吉士氏族の把握である。地方へ派遣された吉士について加藤謙吉は以下のように述べている。とりあげているのは屯倉経営である。難波屯倉(摂津)、桜井屯倉(河内)、大戸御宅(河内)、海部屯倉・経湍屯倉・河辺屯倉・三上屯倉(紀伊国海部郡、名草郡)、茅渟山屯倉(和泉)、穂波屯倉(筑前)、小丹生評(若狭)そして武蔵国、相模国を中心とした東国である。安閑紀元年閏12月条の武蔵国造笠原直使主が横渟、橘花、多氷、倉棲の屯倉を設置した。橘花屯倉には飛鳥部吉志五百国の名前が、横渟屯倉は埼玉県比企郡吉見町か、武蔵国府近辺の多麻郡か不明である。吉見町であるならば近辺の男衾郡榎津郷に承和年間になって前大領壬生吉志福正の名がみえ、多麻郡鴨里には聖武朝に防人として吉志大麻呂が見える。男衾郡の壬生氏には最澄の弟子円澄が出ている。多氷は氷を末として多末、あるいは武蔵国久良(くらき)郡大井に当てる説がある。倉棲は棲が樹の誤りとして久良と読む説もあり、橘花屯倉以外は諸説がある。
 壬生吉士について加藤謙吉は森田梯のいうように壬生の氏名を名乗っているからといって、「武蔵移住の時期を壬生部設置以降と見る必要はない。すでにこの国に移住していた吉士集団のうち、壬生部設置にともない、武蔵の壬生部の管掌者とされた一派が、新たに壬生吉志の氏姓を称したとみることもでき、むしろその蓋然性の方が高いと思われる。横渟屯倉と直接かかわるかどうかは別として、壬生吉士の前身に当たる吉士集団が6世紀代にミヤケ管掌のため武蔵に移住しても、決して不都合はない。」と分析をしている。加藤謙吉は4つの屯倉がどこにあるかではなく、吉士集団が広範囲に移住したことに興味がある。そして、壬生吉士の河内国内で本拠地を考察していないことにも関連するが、吉士集団のひとつが北武蔵(比企郡、吉見郡、男衾郡等近接した一帯)に派遣され、その一つが壬生部の設立に伴って壬生吉士を名のった可能性を見つけようとしている。また、「6世紀末〜7世紀初頭に北武蔵に発現する胴張りのある横穴式石室を、壬生吉士のもたらした葬制とみて、壬生吉士の移住期をこの時期に設定しようとする見解が、金井塚良一氏や原島礼二氏によって説かれているが、胴張り型の横穴式石室が吉士系の墳墓であるかどうかは疑問が多く、移住期をこの石室の出現期まで下げる必要はないと思われる。吉士集団は、畿内政権の東国経営の一環として、秦氏や秦人、東西漢氏やその配下の村主・漢人らと相前後して東国に配置されたのであろう。私見によれば秦氏とその支配組織の成立は6世紀半ばであり、東国の秦氏や秦人には二次的に畿内より移住した者が少なくない。さらに東西漢氏の場合も、その支配組織が成立するのは6世紀代に入ってからである。」p105
 また、武蔵国以外でも相模国高座郡出土の木簡に飛鳥部伊□豊と墨書され飛鳥部吉士が存在したことが判明。上野国多胡郡の建郡の分析を渡来人が多いから多胡の郡名がついたのではなく、すでに多胡吉士が移住していたから郡名が多胡となったのではないかとしている。
 「吉士の地方移住は、『難波吉士』の編成にうかがえるように、『任那問題』の専当者として、なおその渉外能力に期待がかけられる一方で、それ以外の実務分野では、組織的な脆弱性や職能的な狭隘さの故に、彼等の中央での活動の場が徐々に減少しつつあったことを意味するのではなかろうか。・・・彼等が一時的な『派遣』ではなく、『入植』という形で地方に定着させられたのは、彼等の地方のミヤケ経営に専念させることにより、直その伝統的な職能を活用しようとする政権中枢の意図に基づくものと思われる。」と結んでいる。  おぼろげながら、吉士集団が東国に屯倉管理の専当者として派遣された経緯が推測できてきた。加耶出身の渡来系氏族と加藤謙吉が論じた吉士集団の墓制の特色はどのようなものであるか、説明はない。ただ、6世紀からなのか6世紀末・7世紀初頭に入植なのかという時期をめぐって北武蔵に出現した横穴式墓制との関連を否定的に論じている。おぼろげに分かる、ということは東国移住に関してはよく分からないということである。
 もう一つの渡来系氏族の西漢(かわちのあや)にも触れておこう。東漢(やまとのあや)氏は有力渡来系氏族であった。この一族からは後、坂上田村麻呂が登場している。東漢の字を当てることで後漢の霊帝の後裔を称して中国系であることを強調している。本来は朝鮮の加耶諸国中の安羅(安邪)から渡来し檜前周辺に集住した集団を統合したのが東漢氏と捉えている。直接の祖先を応神朝に渡来した阿智使主とその子都加使主とし、文氏、民(みたみ)氏、坂上氏、谷氏、内蔵(くら)氏、大蔵氏などで構成されていた。その中には三河国碧海郡の東漢氏の支配下にあった石村村主石楯のように、恵美押勝の乱に遭遇し、近江で押勝を斬殺する手柄を立てたことから大初位下から一躍従五位下、勲四等、外衛府の将監に抜擢され坂上忌寸賜姓を受けた者もいる。
 加藤謙吉の表2によれば天武14年(685)に連から忌寸へと改姓した11氏族中渡来系氏族は5氏で、その中に草香部吉士→難波連→難波忌寸、東漢直(田井直吉摩呂他)→倭漢直→倭漢忌寸、秦造→秦連→秦忌寸、西首→文連→書忌寸、西漢直(川内漢直)→河内漢連→河内漢忌寸とあり、西漢氏も東漢氏に対応した有力渡来集団であった。西漢氏は後漢の最後の皇帝献帝の子白竜王の後裔を称していた。安羅や南部加耶諸国から河内忌寸が渡来したのが5世紀。6世紀中葉に河内国を中心にして族的な組織形成がなされたと加藤謙吉は述べる。一族は河内忌寸(河内国)、台忌寸(河内国交野郡岡本郷)、山代忌寸(河内国石川郡山代郷)、凡人中家(おほしひとなかつへ。和泉国)などに分かれていた。また、近江国志賀郡を本貫地とする西漢氏、志賀忌寸、志賀穴太村主、春良宿禰、永野忌寸、三津首(最澄の出身氏族、近江国滋賀郡古市郷)もあげている。加藤謙吉は河内国の西漢と志賀郡の西漢氏との共通点を墓制で論拠付けする。すなわち、滋賀郡大友郷にある6世紀後半の穴太野添飼込古墳・百穴古墳などは平面四方形・弓形の天井を持ち、竈形代を副葬するという特徴がある。この竈形代を副葬するのは河内の一須賀古墳群(南河内郡河南町の丘陵地帯)などからも出土している。水野正好は、ここが山代忌寸の本拠地である石川群山代郷(現河南町山城)と地を接することから、後漢の(孝)献帝後裔の西漢氏特有の墓制とした。南河内、中河内に集中する一須賀を含む横穴式石室をもつ古墳群と高井戸横穴群は渡来系氏族の墳墓であるが、それらすべてが西漢氏族のものなのであろうか。引用された範囲では言及がないので分からない。横穴式墓制は埼玉県吉見百穴にもあり、また神奈川県など東国にも見受けられる。いずれも渡来系氏族の墓制であると見なされているが、吉士氏族との関連は今後の課題であろう。
 吉士集団が阿倍氏に帰属して族的な延命を図ったように、東漢氏は5世紀末以降大伴氏との関係が強く、欽明朝に物部氏に大伴氏が敗北すると、蘇我氏と結びついた。蘇我馬子が東漢直駒に命じて崇峻天皇を暗殺させたことなどが思い出される。この動きは西漢氏と物部氏との関係強化を生み出した。物部氏の敗北以降はますます東漢氏との差がうまれ、弱小渡来系氏族として歴史から消えていった。
 吉士と西漢という特殊な氏族の歴史に触れることができたことは、幸せなことである。なお、調吉士との関連で述べれば、さいたま市浦和区にある調神社(つきじんじゃ)は旧荒川の蛇行した岸にある神社で、その神社のいわれの一つに調吉士との関連も語られている。「欽明紀23年7月条に任那滅亡に際して紀男麻呂宿禰を大将軍とする新羅征伐軍が派遣され、副将河辺臣瓊岳(にへ)従い進軍したが新羅軍の捕虜となり降伏しなかったため拷問の末に殺された調吉士伊企儺と子舅父の記事が見られる。この記事にあるように調吉士は、吉士でも紀氏に近い坂本吉士・日鷹吉士と同系と加藤謙吉は推測している。「浦和市史」では調神社を調連や調吉士伊企儺と結びつけ調一族を祀った神社とし、また鎮座地の岸を吉士から生じたという見方をしている。(2007/5/7)