楽書快評
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書名 古代幻視
著者 梅原猛
初出 文春文庫 1997年6月
 縄文土器の土偶の話から「古代幻視」は始まる。これは日本経済新聞に1989年から1991年まで掲載されたものである。柿本人麻呂、菅原道真など遺恨の歴史が、不思議な推論で積み上げられている。好き嫌いの激しい文章であろう。すごいな、と思えば引き込まれ、どうかなと思いはじめれば文章が目に入ってこない。
 梅原猛が幻視している領域や時代は多岐にわたるが、心惹かれたのは「清少納言の悲しみ」である。清少納言が仕えた中宮定子は藤原道隆の娘として、藤原道長の娘彰子と一条天皇をめぐって対立する位置にあった。栄華を極める道長一族に対して没落する道隆一家の中で、特に定子の没後に、清少納言の「枕草子」は執筆された。梅原猛は「彼女の世界はめっぽう明るい。『をかし』という言葉が、『枕草子』に氾濫している。」として枕草子には「甲高い若い女の笑い声が絶えず響いているようである」と読み、その底に清少納言の悲しみの深さを浮かび上がらせた。
 丁度、西暦1000年(長保2年)。道長の娘彰子が中宮となり、道隆を失った定子は皇后の地位へと押し出された。その年の12月、定子はお産で死んでいる。その1000年のある事件を枕草子は描いている。梅原猛はここに注目する。一条天皇が可愛がっていた猫を、皇后定子が可愛がっていた犬「翁まろ」が跳びかかった。天皇は蔵人に命じて打ち懲らしめて島流しにしろと命じた。梅原猛はいう。「ふとしたことから天皇の怒りにあい、流罪にされ、蔵人に打たれ、密かに帰って来て、また打たれた翁まろの姿に定子も清少納言も伊周の面影を見ていたはずである。清少納言はこの話を哀れでおかしいというけれども、この定子の死の年に起こったあまりにも哀れな事件をおかしと見るには、どんな環境においてもなお笑いを忘れないという勝気な女の知性が必要であろう。このあまりに勝気な知性を持った清少納言という女を、私は哀れな女とみるのである。」伊周は定子の兄であり、政敵道長によって内大臣の地位から大宰府権帥に流配された人物である。枕草子を書いた紙はこの伊周から定子に贈られたものであった。
 枕草子99段には没落する道隆一家から人々が離れていく様を描いている。古代・中世にあっては乳母とは母に等しい存在であった。その定子の乳母(大輔)も夫か息子の日向国下向に伴って去っていく話である。皇后定子は無念をあらわさず別れの証に扇を与えた。梅原猛は「それでも定子は不平一つ言わず、別れの証に扇を与えた。その扇には大輔がこれから行く世界と、今彼女が置かれた世界が見事に対照的に描かれている。彼女が誰かにそのような絵を描かせたのであろう。片一方には日の当たる田舎、それは大輔が行く日向の風景であろう。日向の言葉のイメージによって、日の当たる田舎が描かれたのであろうが、大輔の夫か息子は道長側の人物で、日の当たるところにいる人物であることを示しているのであろう。それに反して長雨に閉じ込められている都のある所の風景。ある所というのは、彼女が今いる平生昌の家であろう。日の当たる田舎に行っても思い出してほしい。都でいつまでも降り続く長雨の中で一人思いふけっている私のことを。」皇后定子は「あかねさす日に向かいても思い出でよ都は晴れぬながめすらむと」と扇に添えている。
 このような様子を描く枕草子から明るさの偽装に込められた深い悲しみの声を梅原猛は聞いている。悲しみが深いからこそ、明るさが際立つなどというのは言葉のあやにしか過ぎない。栄華のなかで筆を走らす紫式部と相違して、没落した勢力とともにある清少納言の意気を1000年後にも梅原猛とともに聞こうと思う。(2007/5/22)