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書名 消された政治家 菅原道真
著者 平田耿二
初出2000年7月 文芸春秋
権門の出身ではない菅原道真は讃岐国の国司(前任者は藤原保則)となって現状を把握し、その経験をもって新しい国家運営を始めようとした。律令制国家から王朝国家への転換を準備した政治家として平田耿二は規定し、それを危険視した藤原氏によって消されたと論じている。
律令体制は口分田を耕作する領民への支配を基本にした人別支配であったが、これを菅原道真は土地支配へと転換しようとしていた。「道真の王朝国家構想は、(@)税制の改革、(A)徴税・監査制度の改革、(B)土地制度の改革の三本柱で成り立っていたと思われる。」として偽籍によって成年男子が激減し、ために不都合が生じている人別収取から、誤魔化しのきかない土地に対する課税制度に改める。土地を国家の支配に取り戻し権門の免税も改めて審査しなおす。宇多天皇の後ろ盾を得て、このような構想を菅原道真は描いていた。すでに中央官僚の半ばは菅原廊下の出身者によって占められていた。これに危機感を抱いたのは藤原氏の氏の長者であり、菅原道真と覇を競う藤原時平らであった。
大宰府に追放した藤原時平は道真の描いたマスタープランに基づいて延喜の国政改革を開始する。藤原氏のヘゲモニーの下で国家の延命策が実施された。実行するために菅原廊下出身の中央官僚が必要であった。菅原一族では大学頭高視が土佐介、式部丞景行が駿河権介、右衛門尉兼茂が飛騨権掾、文章得業生淳茂が播磨へと左遷された。だが、菅原廊下出身の官僚の多くは生き延びた。
これまでの徴収システムである里倉負名は富豪層が一般人民に私出挙を割り当て運用、これを中央権門が保障するシステムでかろうじて徴税が行われていた。しかし、延喜の改革によって、富豪層に頼っていた徴税制度が改められ、直接に国司が田に税を賦課するシステムに変更した。「王朝国家の成立によって、それまで里倉負名の担い手として重きをなしていた富豪層は、一般人民と同列の単なる一負名に転落した。社会的に没落した富豪層の不満は、やがて受領に対する暴力行為や暗殺事件を引き起こすが、なかでも関東一帯を占拠した承平五年(935)の平将門の乱は、没落した富豪層の王朝国家に対する不満が爆発したものとして注目しておきたい。」と平田耿二は語る。律令制度の隙間に依拠していた富豪層による、制度改正に遅れた後ろ向きの爆発として平田耿二は関東の反乱を規定している。
新しい国家体制・王朝国家を平田耿二は次のように語っている。「延喜の国政改革によって成立した新しい人民編成は、人民を国有地の小作人として編成するものであり、戸田を納税の単位とするため負名体制と呼んでいる。負名はこのころから農民の呼称である百姓と呼ばれるようになるから、百姓体制と言いかえてもよかろう。」「王朝国家体制では、中央ー国衙で律令制が維持され、国衙ー在地では、律令にはない新しい土地支配が実施された・・・二つの異質の体制、古代的な律令体制と、中世的な負名・百姓体制をつなぐ役割を果たしたのが、“人別賦課を原則とする律令法によって計算した税額”を土地に賦課することだったのである。」中央は律令国家、地方は土地への直接的な支配によって成り立つのが王朝国家である(特に前期王朝国家)としている。すでに宇多上皇によって院政とでもいえるものも始まっていたとも、述べている。
「時平による国政改革は、道真の敷いた路線で実施されたことは明白である。時平政権下の王朝政府は、その輝かしい成果を自分たちの功績にしなければ、政権の安定、藤原氏の隆盛はないと考えたのであろう。道真の国政改革関係の法規を廃棄してしまったのである。道真の悲業の死後、このことが彼らの心に痛みとして残り、やがて道真の怨霊に恐れおののくことになる。」
「道真がこうした一連の政治的大変革を準備し、律令制に固執する天皇と貴族層に、新しい国家支配体制に踏み切るように指示した功績は、あまりにも大きいといわねばならない。道真が奴婢を解放し、家人に昇格させたことは、広汎な農奴制成立と、古代的身分制の解消であった。日本における中世社会の成立という、大化改新に並ぶ政治的変革が、道真によって準備されたのである。」このような平田耿二の意見に従うと、藤原道長に代表される摂関政治、そしてその後の院政までの、いや征夷大将軍という王朝国家の官職によって成り立った武家政権の全てが菅原道真の申し子ということになろうか。だが、菅原廊下という中央官僚の育成機関の代表者(学問の神様)か、国家に怨霊となってとりついた姿しか見えてこない。それは平田耿二がいう「消された政治家」であったためであろうか。もう一つ確証が得られない。それは「王朝国家」という言葉の響きになじめないものがあるためでもある。(2007/6/9)