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書名 「鎖国」を見直す
著者 荒野泰典
初出 2003年4月 かわさき市民アカデミー講座ブックレットNO.13
日本に「鎖国」はなかった、という刺激的な内容の小冊子である。
まず、「鎖国」という言葉の成り立ちから分析が始まる。出島オランダ商館の医師として駐在していたドイツ人のケンペルが著した「日本誌」の付録論文「今の日本人全国を鎖して国民をして国中国外に限らず敢えて異域の人と通商せざらしむる事、実に所益なるに与れりや否やの論」を元長崎通詞の志筑忠雄が訳して出版した中に「鎖国」という言葉が始めて使われているという。志筑忠雄の発明した言葉である。ケンペルは5代将軍綱吉の治世を安定した時代として評価しているのである。
だが、その後、「鎖国」は近代化が遅れた理由とされ、使われるようになる。ドイツにおいて「日本誌」を発行したドームの見解は「日本がヨーロッパとの関係をオランダだけに限定していることが、『鎖国』だったわけで、それはすでに世界の趨勢に合わないものになっていると」いうものである。日本での受容のされ方は幕末にあっては、開国か鎖国かという二元論的な政治文脈によって使われた。さらに明治中期に、歴史教科書に『鎖国』の項目が、「富国強兵を妨げる負の遺産としての『鎖国』が強調される文脈で」登場して拡がっていったと荒野泰典は明らかにする。
それでは、近世の諸外国との関係の実態は、どのようなものであったのだろうか。荒野泰典は、それを二つのキーワードで説明する。一つは海禁であり、もう一つは華夷秩序である。そして実際、近世日本には四つの口が開かれていた。オランダ、中国との貿易港である長崎、朝鮮との交易口である対馬、琉球のとの交易を独占的に行った薩摩、そして蝦夷地にある松前と近世には四つの口が開かれ、その内、長崎だけが取り上げられてきたのは「唯一ヨーロッパとの窓口であり、いわゆる蘭学や洋楽がここから始まったからです。」と述べている。では長崎で行われ交易とはどんな性格を持っていたのだろうか。オランダ貿易は前期には東インド会社の出店である商館との交易であり(東インド会社がつぶれた後はオランダ政府が直接商館を営んだ)、中国貿易も国交を持たない中での民間貿易であった。(しかも東アジアの諸国では東夷と認識されていた女真族が建国した清が中国大陸を制圧した後に激増した中国貿易を押さえ、密貿易に流れるのを防ぐ必要が生まてから、唐人屋敷が1688年になってようやく設置された。それまでは長崎市内に混住していたいのである。)士農工商に分かれて分業する社会体制であった徳川幕府は、長崎という直轄地に奉行を派遣して管理するが、実務は長崎市内の商人がこれに当たる体制である。実利は長崎商人にもたらされている。なお、中国貿易において唐船は「口船」(江蘇、浙江)、「中奥船」(福建、広東、広西)とともに、「奥船」(広南(コウナン)、交趾(ベトナム)など)があり広く華僑のネットワークに乗って東南アジアからの貿易も行われていた。オランダもバタビア(インドネシアのジャカルタ)を根拠に来航していたのである。これらの貿易は主要には日本産の銀と中国産の生糸との交易である。
対馬口は朝鮮との「通信」(朝鮮との正式な国交に基づくよしみを通じること)といわれ、通信使は日本側の負担によりプサンから江戸間の行き帰りが行われた。通信使は4〜500名程度である。朝鮮側の窓口は釜山に限られ倭館が設けられ、常時500〜1000人の日本人が駐在していた。主な交易品は朝鮮人参であった。薩摩・琉球口も中国に冊封された琉球を介した正式な交易である。15世紀、明の時代には琉球は国交を持つ正式な貿易国として最も盛んな活動を行っていた。荒野泰典は朝貢貿易の姿を仮りながら、実態的には「琉球は明の貿易商社のような立場」で東アジアから日本、朝鮮にかけて手広く中継ぎ貿易をして栄えていたのだと、分析する。その後、明の支配が揺るぎ倭寇が盛んになると琉球の朝貢貿易の特権的な理由もなくなり、それにヨーロッパ諸国が東アジアの海に現れると没落していった。これに乗じたのが薩摩藩で、なお琉球を中国とは冊封の立場に置きながら武力支配を行い、特産品である黒砂糖を奄美に持ち込んで一大プランテーションを行うことで幕末にいたる富の源泉を確保したのである。最後に松前口である。琉球と同じく蝦夷地は徳川幕府においては日本の領域以外であり、蝦夷地との交易は外国貿易に当たる。特に昆布は重要な交易品であるとともに、中国とロシアにまたがる沿海・アムール川沿岸とは「山丹」地域と呼び、蝦夷地を介する交易ルートを持っていた。
中国をまねた「華夷秩序」概念をアイヌ、琉球、朝鮮などに適用し、「海禁」すなわち華夷秩序を維持するために、「日本人は自由に海外に渡航することを禁止されると共に外国人との自由な交わりも禁止され、それを保障するために厳しい沿岸警備体制が敷かれていた。」このような厳しい「海禁」は日本独特の政策ではなく、中国、朝鮮にも共通する政策であり、これは国を鎖す政策とは違い、交易を行いつつ、それをキリスト教やその他外国からの侵略とそれに呼応する人民とを引き離す政策である。キリスト教への対応も荒野泰典が示す表に従えば、日本が1612―1873年間禁教。中国が1723―1844年間禁教、朝鮮が1791―1882年間禁教、ベェトナムが1645初弾圧、1825宣教師入国禁止、タイが18世紀弾圧など普遍的な対応である。日本は自給自足経済を江戸時代にも行っているわけではなく、また人口も3倍になるなど決して停滞した社会ではなかったことを荒野泰典は強調している。さらに「鎖国」とみなしてしまうと、アイヌ、琉球、奄美における収奪の視点が落ちてしまうことを言及している。東アジアの政治経済状況を踏まえた近世日本の姿を、政治的に使われた「鎖国」史観で見ることの弊害を改めて思う。(2007/9/2)