楽書快評
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書名 地域社会から見た「源平合戦」
編集 歴史資料ネットワーク
初出 2007年7月 岩田書院
 阪神淡路大震災後の地域資料のレスキューからスタートした歴史資料ネットワークは市民・行政と連携して地域社会と歴史のかかわりの検証を行ってきた。
 神戸市兵庫区の「神戸源平シンポジウム」の成功を媒介にして、地域社会とのかかわりを鮮明にした論文をリーフレットにしたのが「地域社会から見た『源平合戦』」である。内容は「生田森・一の谷合戦と地域社会」(川合康)、「南北朝内乱からみた西摂津・東播磨の平氏勢力圏」(市沢哲)、そして「生田森・一の谷合戦史跡地図」(樋口健太郎)である。
 川合康の「生田森・一の谷合戦と地域社会」は、源義経が主人公の一の谷の合戦、そのハイライトである鵯越の戦いの伝承を、在地の武士団の勢力や湯山街道と呼ばれる幹線道路への注目から新たな真実で覆す試みである。
 生田森・一の谷合戦というネーミングからして新たな視点を感じさせる。まず、治承・寿永の内乱(源平合戦)の中で生田森・一の谷合戦という福原京をめぐる源平の争いが、源頼朝率いる東国武士団(川合康は鎌倉軍という)の歴史的勝利を決定付けた戦いであると押さえる。
 なお、源頼朝の意向に反し、後白河院の意向に沿って行われた平氏追討(「最近の研究では、この義経の出陣は後白河院の許可のみで行われたものであり、範頼軍による包囲作戦で平氏軍を降伏させ、三種の神器や安徳天皇の安全を確保しようとする頼朝の構想とは、大きく異なるものであったことが指摘されています。義経が頼朝から追放された理由の一つは、実はこれまでの義経の最大の功績として評価されてきた平氏追討の在り方自体にあったのです。」川合康)それ自体が、義経の没落を準備したことも指摘している。
 この戦いには東国から来た武士団のみならず西国の武士団や在地の非戦闘員も参加を強いられたのは当然である。それではこの摂津・播磨を中心とする動員に応じた最大の勢力が誰かということになる。そこに摂津国惣追捕使に任じられたと考えられる摂津源氏の多田行綱が登場する。「儒林拾要」にある廻文から多田行綱を浮き上がらせていく。それだけではない。福原京を攻める大手軍は源範頼に率いられて山陽道の「浜の手」から生田森に迫る。源義経に率いられた搦手軍は丹波から一の谷に向かう。搦手軍の別働隊を率いた多田行綱は在地の特性を生かして山の手からいち早く攻め込んだ。そしてこの山の手に鵯越があるのである。「鵯越は、播磨国三木(兵庫県三木市)と福原に隣接する夢野(神戸市兵庫区夢野町)・兵庫津を結ぶ山中の間道で、寛延元年(1748)に刊行された『摂津国名所大絵図』においても、北側の山中から福原の背後に出る唯一のルートとして描かれています。」と川合康は説明している。さらに行軍の経路を次のように推測している。「三草山で平氏の守備隊に勝利した源義経の搦手軍は、右に述べたように、播磨国の社・小野・三木を通って印南野(いなみの)に南下したと考えられますが、多田行綱の別働隊は、おそらく三木において搦手軍本体と分かれ、鵯越に進んだと推測されます。播磨国三木・志染(三木市)から湯山街道山田道に入り、摂津国衝原・西下(神戸市北区山田町)へと東に進んだのち南下し、藍那(同前)を経て夢野にいたるルートです。」つまり、山陽道の裏街道に当たる湯山街道が重要な軍用道路として機能したことに着目した論文である。平家物語が一の谷に焦点を集中した結果、福原京攻めは虚構文学となり、それを地域社会の実情から改めて史実を掘り起こしたのが、今回の川合康の主張である。多田行綱は平家物語で鹿ヶ谷事件の折、陰謀を平清盛に密告した人物として描かれている。平家とのつながりも強い多田源氏の財政的基盤である多田院は摂津国にあり、川辺郡昆陽野はその勢力圏であるとともに福原京にもつながる重要な位置にある。このような多田源氏は状況が一段落すれば源頼朝にとって粛清される運命にあったのである。微妙な政治的な立場にありながら、福原攻めにとって欠かせない摂津国の軍団長として活躍した証が山の手・鵯越からの別働隊指揮であった。が、平家物語では華やかな活躍を描かれることはなかった。
 もう一つの論文「南北朝内乱からみた西摂津・東播磨の平氏勢力圏」(市沢哲)は、川合康の福原京攻めに限った展開に地域社会のいっそうの膨らみを与えたものである。
 したがって、湯山街道の重要性が話の軸となっている。論の展開はいったん歴史を下って南北朝時代のせめぎあいから語りだす。赤松氏を中心とする室町幕府軍に対抗する宮方として山田荘内の丹生山(たんじょうさん)を拠点とした金谷経氏が登場する。金谷経氏の勢力圏は丹波篠山と加古川中流を結ぶ道にある東条、三田と三木を結ぶ道にある吉川荘、湯山街道にある淡河荘と山田荘というように東西を結ぶ交通の要地にある。金谷勢は山田荘から兵庫や湊川へいくつものルートで進出していった。
 この山田荘を中心とする地域は他ならぬ平清盛の所領であったところ、それも福原を平家の拠点とする時期と、所領の獲得とが重なり、いわば後背地としての位置にある。室町時代の記録によると山田荘からの年貢は兵庫津から船を利用して運送されている。こうして市沢哲は「清盛の所領山田荘と福原は密接な交通で結ばれた、ひとつのまとまりをもつ『地域』であったといえます。仮にこれを、西摂津の平家勢力圏の『縦軸』と考えることにしましょう。」と規定する。鵯越も山田荘と兵庫(福原)とを結ぶ大きな三ルートの一つにあるのであった。横軸は湯山街道。湯山街道を西に進むと国包(加古川市上荘町)で加古川に突き当たる。国包を南下すると平清盛が1167(仁安2)に獲得した大功田のひとつである印南野がある。加古川の支流の万願寺川沿いを遡ると清盛の弟平頼盛の所領・在田荘があり、平家勢力の拠点化が進んだ地域であったことを市沢哲は明らかにする。そしてこの東摂津・西播磨の勢力圏をH型でつながる地域と見る。山田荘・福原および加古川沿いの在田荘・印南野を両方の縦軸としそれを繋げる加古川中流の国包と山田荘を結ぶ湯山街道(三木街道)を横軸とする平家領である。
 このルートは古来からの「幹線交通路」であったと市沢哲は補足をおこなっている。三木・淡河を含む美嚢郡には忍海部が大和政権によって設置されていた。また加古川を遡り水源を同じくする由良川を下ると日本海側の丹後の海岸に出る「中国山地のうちで最も越えやすい道筋」であった。このような「地域的なまとまり」に注目した平家は福原京をはじめとする「政治的なテリトリー」をこの地に形成した。この政治的なテリトリーが再び着目されるのは鎌倉幕府末期の蒙古来襲への危機感からである。鎌倉幕府は印南野の大功田に起源を持つ五箇荘を播磨守護領の中心として、摂津国の山田荘、兵庫荘など一体的な支配を六波羅探題北方に委ねている。この地域が政治的なテリトリーとなるのは対外的な政策が重要視され、西国、九州そして中国大陸への道筋として拠点化が必要な時期である、と大きな歴史的背景も含んで市沢哲は地域社会の歴史的実態を把握する。
 「地域社会から見た『源平合戦』」は、コンパクトな中に地域社会に根付いた歴史がつまっている。
(2007/9/24)

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