楽書快評
トップページに戻る
0158

書名 日本のシルクロード
著者 左滝剛弘
初出 2007年10月 中公選書ラクレ
 父の生家は埼玉県吉見町にある。幼い頃、連れられて訪れた折、雨が降るようにとどめなく蚕が桑の葉を食べる音に、驚かされた記憶がある。蚕は「おかいこさま」と呼ばれていた。関東平野の山がつの地域は養蚕の盛んな地域であった。
冨岡製糸場東繭場 NHKに勤める左滝剛弘がバランスよい筆の運びで群馬県冨岡市にある富岡製糸工場を中心に絹産業遺産群を取り上げているのが「日本のシルクロード」である。バランスのよさとは、世界遺産にすることを過度に求めていないことにも現れている。「大切なのは、見過ごされてきた地域の文化の価値に、自分たちが気づくことができるかどうかである。(中略)世界遺産登録は最終的な目標ではなく、地域を見つめなおすトリガーとなってくれさえすれば、あとはユネスコに頼ることなく、自分たちの手で、進めていけばいいのだ。」と左滝剛弘は考えている。これが正しい姿勢ではないか。
富岡製糸場糸繰場 群馬県富岡市は、製糸工場建設により、近代になって開けた土地である。鏑川沿いの1万5000坪の敷地に巨大な3棟の建物が建つ。見学は生糸の原料となる繭を保管していた100メートル以上の東繭倉庫から始まる。建物の工法は「木骨レンガ造り」、つまり骨組みは木材、それをレンガで積んで作った建物である。「明治5年」のプレートがかかげられている。もう1つの倉庫と製糸工場とともに巨大な製糸場を形作っている。建設はフランス出身のポール・ブリュナ。設計は横須賀製鉄所(造船所)の製図を引いていたエドモンド・オーギュスト・バスチャン(フランス)。杉、松そしてレンガは群馬県内で調達、鉄サッシやガラスはフランスから輸入された。日本で最初の重工業である(徳川幕府、特に小栗上野介が推進した;群馬県にある領地の権田村に隠棲していた小栗は明治政府軍によって言われなく惨殺された)横須賀製鉄所の技術が、軽工業の冨岡製糸工場の建設にも応用されている。官営工場として始まった冨岡製糸場は三井、原(三渓園の原)、片倉工業と転売され、2007年に片倉から富岡市に所有が移っている。
 冨岡製糸工場はすばらしい近代産業遺産である。しかし、そこにあるのは製糸工場跡でしかない。地域文化を考える時、建物ばかりに注目するのではなく、その時代背景、その地域とのかかわり、そしてそこに働いた人々の姿を全体的に捉えることが必須である。全寮制で親元から離れて働く女工には没落した士族や貧農の少女もたくさんいたのである。冨岡製糸場の平均8時間40分の近代的労働時間制について左滝剛弘はいう。「こうした労働時間の設定は、日の出前から起き出し、日没後も夜なべ仕事に明け暮れる当時の農村の生活を思えば、画期的ともいえる環境であった。」だが、それが家族と共にあるのと、切り離されて仕事のみの毎日では、険しさが違うともいえるのではないだろうか。
 製糸は養蚕と製品化(絹織物)の中間に位置する。左滝剛弘は群馬県各地の山間部に残る養蚕農家や風穴を利用した蚕の種を保存する施設など人々の創意工夫に支えられた養蚕と、地場産業の家内工業として存在した「座操」(ざぐり)による製糸を取り上げる。農家でつくる生糸を共同出荷する「組合製糸」が群馬県では盛んで、碓井社、甘楽社、下仁田社などが活躍した。「碓井社は次第に力をつけ、本館ができたころには、メルボルンやシカゴの万博で生産された生糸が優等や一等を得るなど名声を博し、大正初期には輸出生糸の生産で日本一となった」時さえあるというのである。
 糸で銃を買う政府の富国強兵政策のため、生糸の最高品は横浜から欧米に輸出された。長野県岡谷市をはじめとする製糸工業地帯からの輸送網は、碓氷峠を越え、群馬県を通って横浜まで鉄道の敷設によって実現された。他方では、製糸の二流品は近くの桐生などの絹織物産業地帯に流通して行った。JR両毛線や上毛電鉄が作られたのである。織物工場の姿である「のこぎり屋根」建物が桐生市内には最盛期に1000棟、現在でも230棟あるとのことである。
 富岡製紙工業を嚆矢とする産業の近代化は各地に受け継がれて行った。長野県の岡谷市ばかりではなく、京都府綾部市を発祥の地をする郡是製糸(グンゼ)など各地に広がっていった。それぞれに新しい産業文化をひろげる人々の努力とストーリーとがあったのであろう。日本の近代化遺産が注目されている。琵琶湖疎水とともに富岡製糸場はその代表的な遺産である。遺産の評価はプラスマイナス両面からのアプローチが必須である。その点、「日本のシルクロード」はバランスの取れたガイドブックとなっている。(2007/10/28)