書名 妖雲
著者 徳永真一郎
初出 1992年 青樹社
権力の亡者たちの興亡の物語である。副題に戦国下克上・三好長慶の生涯とあるように阿波から上洛し、一時は幕府を思いのままに動かした三好長慶が主人公である。だが、この主人公には松永弾正という獅子身中の虫が取り付いていたのである。小説では三好長慶に、松永弾正久秀を指して「三好家は、悪魔の権謀術数でほろびる」と語らしているが、三好氏自体が阿波細川家の家宰として台頭、細川家の傍流阿波細川家も室町幕府足利家の重臣として台頭しそれぞれが、権謀術数を尽くして同族や上位者を除いていくパワーゲームに明け暮れていた。それは室町時代末期から戦国初期の時代である。それぞれがそれぞれの利害にこだわり、より多くの権勢と利権を得るために、同輩や血族を裏切り、上位者を傀儡として祭り上げ実権の確保に余念がない。今の世も同じ政治の姿ではないか。
徳永真一郎はこのような時代の覇者となった三好長慶を描くのに綺麗に描いている。それは悪魔とされた松永弾正と対比して描くという構図のためであろう。が、三好長慶のうちにある悪魔を描かないことには、松永のそれに勝る悪魔が浮き出てこない。そこが、三好氏の台頭の歴史叙述に、薬味が効いていないと感じるところである。
三好長慶には次のようなエピソードがある。三好長慶が既に畿内の実権を掌握している時期のことである。1562年永禄5 3月、阿波勢を率いて和泉の久米田に陣を布いていた三好義賢(実休 長慶弟)に対して、畠山高政は根来衆を味方につけて攻撃をかけてきた。阿波勢は根来衆を撃退し、根来衆の逃げ込んだ湯川氏の陣を攻撃した。義賢(実休)はこの戦いの最中に根来衆が放った鉄砲によって眉間を打ち抜かれてこと切れた。この戦いが行われている時期、三好長慶は河内国(現在の大阪府大東市および四条畷市にある318mの飯盛山に築かれた山城)において連歌の宴を催していた。「薄にまじる葦の一むら」につける句に思い悩む最中に、義賢(実休)敗死の報が伝えられた。徳永真意一郎はこの場面を「長慶は、近臣の知らせに顔色ひとつ変えずに、ひと言、『わかった』といったのみであった。(中略)長慶は、近臣がひきさがると、しばらく黙想していたが、やがて短冊に筆を走らせ、『古沼の浅きかたより野となりて』と書き、これを読みあげた。(中略)拍手の波が静まったころ、『先ほど近習が知らせにきたことは、じつは、わが弟入道実休が、泉州の久米田において討ち死にしたことをしらせてまいったのでござった。連歌合は、この句をもって、終わらせてもらいたい』こういって、連歌合を中止した。」これだけでは三好長慶が雅に呆けて、弟の死より連歌を優先しているようにしか見えない。そして、「根来衆に、わが手の者をもぐりこませていたが、これほど早く、わしの望みを成就してくれるとは思わなかった」という松永弾正の心の中の言葉が対比されている。腑抜けと悪魔の対比である。しかし、この場面の三好長慶の姿はこのようにしか解釈できないのであろうか。司馬遼太郎氏は『街道をゆく』の「阿波紀行」で別の解釈をしている。「最初の句もいいが、この長慶の句もいい。満座大いに感じ入ったという。『三好別記』によると、連歌が果ててから、長慶は実休の戦死のことを一座のひとびとに告げたというが『武将感状記』では、上の下の句を付けおわってから、実休、敵の為にうたれぬ。今日の連歌此の句にて止むべし。 と、長慶はいって、即時、兵を催して出て行ったという。長慶はぶじ弔合戦を遂げて畠山軍を追いはらった。」この司馬遼太郎の見方には華があり意地がある。賛意を表したい。
だが、三好長慶よりも、松永弾正が上手の人生を生きたのも事実であろう。それも、織田信長が登場してくるまでは。既に、三好長慶が「古沼の浅きかたより野となりて」と句を付けた2年前には桶狭間の戦いで上洛を試みた足利氏の一門今川義元を織田信長は滅ぼしているのである。畿内の古沼が野となるのは、もう間近であったのだ。織田信長には、戦国の世を終わりにする『天下布武』の気概があった。政治には野心のみで成り立つパワーゲームの駒たちではなく、理念がある者しか残らない。そう信じたいものである。(2007/12/15)