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書名 村雨の首
著者 澤田ふじ子
初出 別冊歴史読本特別増刊 1987年冬
主三好家に背き、将軍義輝を弑逆し、東大寺大仏を焼き払った松永弾正久秀は梟雄といわれている。この、松永久秀は幼君三好長慶を傅育し畿内の支配者まで育てた二心のない律義者として澤田ふじ子は描いている。「公卿の日記や諸資料を克明に読んでみると、意外に無辜、潔白の姿が浮かんでくる。松永久秀は、どうしようもないほど<汚名>を被るため、不運に生きてきたとしか考えられないのだ。」と澤田ふじ子は弁明している。そして潔白な例として次のような話を述べる。「将軍義輝を殺害した三好義継と三人衆たちは、すぐさま京都の統治と支配にのりだした。かれらは幕府に代わって、奉書・裁許状を発する。武家文書―と称されるこれらを厳密に検証していくと、梟雄といわれてきた松永久秀の名によって発給されたものは、一点もないことに気付かされる。・・・松永久秀が将軍義輝を弑逆し京を恣にしたというなら、権勢を象徴する武家文書に、どうしてかれの名がないのか。奈良の信貴山城という遠い棧敷に置かれ、将軍弑逆とは無縁だったのである。」
やがて、畿内と阿波・淡路での下克上の争いに乗じて、織田信長の登場である。戦国時代のもう一人の梟雄斉藤道三の婿である織田信長が将軍足利義昭を奉じて上洛すると松永久秀は茶湯の名物道具「つくもかみの茶入れ」を献上しして帰順した。その後10年は越前攻めの背後を浅井長政に突かれて敗走した織田信長を救い、あるいは織田信長と不和になっていた将軍義昭と旧主筋に当る三好義継とに結び、織田信長に背いた。このような繰り返しの後、石山本願寺攻めが膠着し、上杉謙信が上洛軍を起こすと三度、織田信長に反旗をひるがえす。ひるがえすにいたった契機を澤田ふじ子は徳川家康に松永久秀を紹介した次の言葉が、松永久秀の胸をえぐったからであるとしている。織田信長は言う。「この老体は主を殺し、将軍を討ち、東大寺の大仏を焼いた松永弾正久秀じゃ。しかとおみしりおかれよ」これを聞いた松永久秀は「信長だけは悪評の真相を承知していると、勝手に思いこんでいた久秀は、こころない紹介のしかたに息をのんだ。自分はいずれ冷酷傲岸な信長に滅ぼされると思ったのは、このときであった。」と澤田ふじ子は描いている。こうして、大仏の焼けたのと同じ10月10日、織田信長軍の猛攻にまえに、信貴山城は焼け落ちた。「あほくさい一生だったわい」と呟いて死んで行った、と結んでいる。松永久秀は無辜、潔白のわが身が、理解されずに梟雄として滅びていく自らの人生を「あほくさい」と断じた。澤田ふじ子は松永久秀の人物像を無理解に苦しむ律義者という新しい造型で描いたのである。
神坂次郎は、「ドンジョンのある風景」で梟雄といわれた松永久秀をそのままに描いている。(「おかしな大名たち」所収 1990年 中央公論社)ドンジョンとは西洋の城館にある楼閣であり、松永久秀が日本に始めて持ち込んだ天守閣のことである。神坂次郎も、松永久秀が織田信長への最後の反旗をひるがえした契機を同じく徳川家康に紹介した織田信長の先ほどの一言にあったとする。「おのれ青二才め!」と神坂次郎は松永久秀に語らせる。神坂次郎が描く松永久秀は「『天子も土民も、死ねば諸共この世の塵よ』と、当時の日本人にはめずらしく徹底した合理主義精神で、けろりと死んでいく。久秀のこの怪物ぶりにある種の興味をおぼえるのは、そんな乾いた唯物観のためかもしれない。」この人物造型の方が下克上をのし上がった松永久秀の精神のあり方を伝えていると思える。「神を信じなかったのは信長も同じだが、信長は信じなかったかわり、自分を“神”だと信じていた。自分自身を“塵”だと思っていた久秀のほうが、よほど近代的合理主義精神の持ち主のようで、一種、爽快である。」と神坂次郎は小説を結んでいる。この観点から見れば、「あほくさい一生だったわい」の呟きも別の色合いを帯びてくる。もちろん、近代的合理主義精神を松永久秀が持っていたわけではない。近代的合理主義には自由とか平等とか契約とか、塵のような人間同士を結びつける理念も含まれるからである。
澤田ふじ子は、松永久秀を自分が理解されないと悩む、そのこころを描き、神坂次郎は合理主義で新しい発想で状況切り開く、その精神のあり方を描いた。二人の作家とも、松永久秀のその酷薄さや血生臭さではない、心や精神に着目して描いているのである。もっとも澤田ふじ子が他の初期の歴史小説集とともに「村雨の首」を収録した同名の書籍「村雨の首」(廣済堂出版 1990年)のあとがきで「若書き」と弁明しているように松永久秀の心のひだの描き方はまだ一襞である。無辜、潔白のなかにしたたかさや、悪意を読み取り、そのしたたかさのなかや悪意のなかに優しさや新しい知恵のあり方をみるようなひだの多様さはまだ描かれていない。
松永久秀は面白い題材である。作家の意匠次第である。(2007/12/28)