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書名 冬の長門峡
著者 中原中也
初出 1937年4月 文学界4月号(1938年「在りし日の歌」創元社)
長門峡に 水は流れてありにけり
寒い寒い日なりき
と鎌倉にあって、中原中也は望郷の歌を歌った。1936年11月に長男文也が死亡、12月次男愛雅が生まれ、神経衰弱に陥った中原中也は千葉の療養所に入院した後1937年2月に鎌倉市扇ヶ谷に住む。1937年4月文学界に「冬の長門峡」を発表した。この詩を優しい中村稔は次のように解説する。「中原中也の心には過去が渦巻くように氾濫していた。過去をみかえる彼の心は、逝いてかえらぬものへの哀惜と生の回復への祈りにつらぬかれていた。『水は、恰も魂あるものの如く』流れ流れてやまない。その水を照らすかのように夕陽がこぼれ落ちて、過去の一瞬が凍りつく。」(「中也のうた」現代教養文庫 1950)と。
山口市湯田に生まれた中原中也は、そこから鉄道に乗って長門峡(旧川上村と阿東町とにまたがる石英斑石が浸食されて阿武川と篠目川の合流点につくられた渓谷。冬の寒さは厳しい。)を訪れたのはいつの日であったか。そして、冬の長門峡沿いにある料亭から覗く川面に何を思ったか。
われは料亭にありぬ
酒酌みてありぬ
われのほか別に
客とてもなかりけり
水は、恰も魂あるものの如く
流れ流れてありにけり
長門峡の水は、魂の如く流れている。魂は流れるものとして中原中也は望郷の思いの中で感じている。魂は流れるものなのだろうか。流転する魂。思い出す長門峡の流れは、決して穏やかな流れではなかったであろう。中原中也の魂はなぜに流転しなければならなかったのであろうか。あるいは、中原中也が自らを流転する魂の持ち主として捉えたのであろうか。だが、それを突き詰める中原中也ではなかった。思い出は夕日のように沈んでいく。
やがても蜜柑の如き夕陽
欄干にこぼれたり
ああ―そのような時もありき
寒い寒い 日なりき
「冬の長門峡」に望郷の念を込めて間もなく、10月22日、病名結核性脳膜炎で没。30歳であった。人生のたそがれを思うには若すぎる年齢ではあるが、代々の医者の長男と生まれ、これまで定職もつかず、「汚れちまった悲しみに」などと愚痴ともつかず、恨み言ともつかない詩句を紡いで来た。冬の長門峡は、愚痴も出ないほどに放念した心持を歌っている。自らの魂を流転するものと感じたとき、人生の源の山口に帰る気持ちが生まれる。近代的な個人は、自らの魂をコントロールしつつ自己を発揮する。魂を流れるものとして思い描くとき、近代的な詩歌は中原中也の手からすり抜けていく。封建遺制と近代とが複合化された日本的な現実と、そこに生きるしかない自分の無様な姿とを凝視し続けるのが詩人といわれる人々の矜持ではないか。だが中原中也に残るのは、現在の、そして思い出される郷里の寒さのみ。(2008/1/22)