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書名 日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか
著者 内山節
初出 2007年11月 講談社現代新書
1965年ころから、日本人はキツネに騙されなくなったという。なぜキツネに騙されなくなったのか、あるいは騙されるという物語が紡げなくなったのか。一年の半分は群馬県上野村に住む内山節が、このことを糸口しにして、日本人のあり方、あるいは近代的な個人のあり方に迫ろうとしたのが、本書である。
近代まで地球上でも未開の一つであったヨーロッパの考え方を次のように要約する。「伝統的なヨーロッパの思想は、『人間らしさ』を、未来をつくりだしていく可能性として肯定する。人間が知性をもつことによって文明が開けたと考える。ところが日本の伝統思想はそうではない。知性を持つことによって自然であることを失ったと考えるのである。人間的な精神にも同じような視線がむけられる。その気持ちに言葉を与えたのが日本に土着した仏教であったから、その気持ちを仏教で語れば、煩悩をもち、我執にとりつかれた凡夫としての人間ということになる。だからそういう人間として生きている過程で、霊が穢れて行く過程ととらえられたのである。ゆえに最後の目標は自然に帰ることであった。我執を捨て、煩悩を捨て、知性によってものごとを解釈してわかった気になる精神を捨て、自然の一員になっていく。」人間らしさをめぐるこのような対比を一般的には近代と前近代の発展過程での相違として、とらえる。しかし、ヨーロッパの伝統思想が、かえって未開な地域の人々の苛烈な意識の産物でしかないとしたら、また発想の転換が生まれるのであろう。もちろん、内山節はヨーロッパの伝統思想を、その地域の未開性と結びつけるような、傲慢な推考はしていない。単に「いま私たちが歴史としてとらえている世界は、ヨーロッパ的なローカルの精神によってつかみとられた物語だということ」と述べるに止まっている。
日本の村に対する意識を内山節は「村という言葉は、伝統的には、人間社会を意味する言葉ではなく、自然と人間の暮らす社会をさしている。とすれば動物もまた村のメンバーであり、共同体の仲間である。」だが、人間は、生きていく為の必要最低限の行為をするだけではなく、時として富を増やし、あるいは自己表現のために自然に作為を働かす。これを、人間らしさとして肯定せずに、解体すべき「我」として日本人の伝統思想は考えた。内山節は「その意味では日本の民衆思想は他力の思想なのだと思う。自然という絶対的に清浄なものをみいだし、その自然の姿に導かれながら『我』を解体していく。自然を神とする絶対他力の思想が底にあって、その思いに言葉を与えたのが仏教である。」と述べ、渡来した体系的な思想である仏教も、日本的な変容によって自然回帰のための「言葉」となったというのである。
自然と人間の暮らす社会としての村、「このような生命世界の中で人がキツネにだまされてきたのだとしたら、キツネにだまされる人間の能力とは、単なる個体的能力ではなく、共有された生命世界の能力であった。」と内山節は見なしている。騙されなくなったというのは、このような共有された生命世界の能力が、失われて行ったからである。1965年頃を境にしておこった「高度成長の展開、合理的な社会の形成、進学率や情報のあり方の変化、都市の隆盛と村の衰弱。さまざまなことがこの時代におこり、この過程で村でも身体性の歴史や生命性の歴史が消耗していった。」このなかで、ヨーロッパ型の歴史発展志向の人間らしさが幅を利かすようになった。内山節は身体性や生命性の歴史を「たとえば畑を耕す技でもよい。その技を受け継いだとき、同じように畑を耕してきた人々の身体とともにある歴史が感じられる。それは、ずっと人々はこうやって自然とともに生きてきたのだと感じられるような歴史である。身体とともにある世界が、たえず循環して継承されることによって諒解されていく歴史である。」と定義している。このような歴史は何かに「仮託」されなければ見えないものである。それは山の神や田の神などの神のかたち、あるいは様々な通過儀礼や年中行事を介して、つかみとらえられた。キツネに騙されることも、この生命性にあふれた歴史が「仮託」した物語の一つである。身体とともにある歴史、生命性を感じ取れる歴史を見えなくなった現在の日本に住む人々は、キツネにだまされなくなっている。このように内山節はまとめるのである。
日本に限らず近代以前から開けた地域に生きてきた人々の世界観は、内山節が本書で展開した生命性・身体性に即した考え方を持っていたのではないだろうか。キツネには騙されても、相互扶助の信頼が底にある村の営みのなかで、我執と清浄を行き来しつつ生涯を終って行ったのではないか。そのような印象を抱きながら、本書を読んだ。
いま、キツネには騙されないが、人には騙される時代を、発展した社会と信じて日本人は生きている。(2007/2/16)