楽書快評
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0163
書名 のぼうの城
著者 和田竜
初出 2007年12月 小学館
 「のぼう」は「でくのぼう」のことだという。成田長親は戦国末期の忍城主成田氏長のいとこに当る。のぼう様と呼ばれた。そののぼう様が吠える。「武ある者が武なき者を足蹴にし、才ある者が才なき者の鼻面をいいように引き回す。これが人の世か。ならばわしはいやじゃ。わしだけはいやじゃ。」と。著者はこれを受けて次のように言う。「強き者が強きを呼んで果てしなく強さを増していく一方で、弱き者は際限なく虐げられ、踏みつけられ、一片の誇りさえ持つことさえも許されない。小才のきく者だけがくるくると回る頭でうまく立ち回り、人がましい顔で幅をきかす。ならば無能で、人が良く、愚直なだけが取り柄の者は踏み台となったまま死ねというのか。」この言葉を読みながら、今もなお戦国末期と変わらぬ世の非情が続いていることを思う。
 埼玉古墳群のある行田市は、昔は忍(おし)と呼ばれていた。成田氏は隣接する熊谷市上之を発祥の地とし、藤原南家の流れをくむと自称している。武蔵七党の一つ横山党ではないかとの説もある。15世紀後半に忍保を領有していた児玉党忍大丞の館を襲い、ここに城を建てた。利根川と荒川とに挟まれた地域である。低地で深田と池沼に囲まれた岡の上に築かれた平城である。この片田舎の城とそこを1世紀に渉って領有してきた土豪(最盛期には30万石の知行があったともいわれる)が、歴史の舞台にでたのは豊臣秀吉の小田原征伐の折のことである。当時、成田氏も関東の中小豪族の多くと同じく、後北条氏の軍門に下り、豊臣秀吉の派遣した石田三成の部隊への備えとされた。石田三成が忍城に「水攻め」を試みたことから有名となった。備中松山城の水攻め(2.5kmの堰堤)をまねて、石田三成は、堤を利根川から荒川までの28km(旧来の堤防21kmに新たに7km)に築き、忍城を水没する計画を立てた(「埼玉の城址30選」埼玉新聞社)。基点となるのは石田三成が本陣を敷いた埼玉古墳群のひとつ丸墓山である。いまでも堤の一部は石田堤として残っている。堤は城方により決壊させられ、水攻めの効果のほどは諸説ある。
 小説に戻ろう。城主成田氏長は主力を率いて小田原篭城に参加し、留守部隊は伯父成田泰季が城代となり、病没するとその子長親が城代となった。守る城兵は500名。それに農民が加わり3700名が篭城した忍城に、石田三成を主将に、大谷吉継、長束正家らに率いられた23千の兵が、館林城を落とした勢いで取り囲んだ。1590年 天正18 6月4日、降伏を伝える軍使長束正家に応戦の意を伝えた成田長親の気持ちを述べたのが、最初に引用した「武ある者は・・・」の言葉である。そして3700名がすりつぶされるのを覚悟で「坂東武者の槍の味、存分に味わわれよ」と長束正家に返答したのである。初日、圧倒的な兵力を誇る石田三成軍は力攻めを試みる。対して地の利を知る城兵は、奇策をもって抗する。例えば、正木丹波は騎兵の後ろに鉄砲組を乗せる 「騎馬鉄砲」を試みて機動性を高め、年若い酒巻靭負は老兵を持って城内に誘い込み待ち伏せ攻撃をかける。そして柴崎和泉は流れを堰き止めていた忍川の堰を切って、渡河する敵兵を激流によって飲ませた。
 初戦の後、石田三成は水攻めを始める。城代成田長親は、拡がる水の上に小船を走らせ、田楽舞を敵将たちに見せる。これを好機として鉄砲で撃ち取ろうとする石田三成に、大谷吉継は諌める。「『考え直せ、わからんのか。あの城の者どもは、古より血で血を洗う無数の戦場で生き残った兵どもの末裔なのだぞ。親討たれれば、子はその屍を乗り越え戦い続ける坂東武者の血が、侍どころか、百姓どもの隅ずみにまで流れておるのだ』この忍城の者たちも、長親が死ねばその屍を乗り越え、猟犬のごとく寄せ手に襲い掛かるに相違ない。土塁の上で、歓声を上げる百姓も。深刻な顔つきで長親をみつめる甲斐姫も、そして靭負も。舟上で、漕ぎ手を叱咤する丹波や和泉も。そのいずれもが、死兵と化して、舎利になるまで戦い続けるに違いない。『考え直せ。このままあの男を城に帰すのだ』」だが、石田三成は射殺を命じる。幸い深手を負ったのみで成田長親は命を永らえる。この行為により城兵の戦意を高まっただけではなく、築堤作業を担った百姓からも呼応する者が生まれ、堤を崩すこととなった、と小説では描かれている。水攻めが失敗し、泥沼と化した城の周りを土俵を敷き詰めて道を作るという定石を打って総攻撃を転じようとした、その時、小田原開城の使者が到着。こうして、石田三成が忍城に乗り込んで、城引渡しの講和の場面となる。成田長親は講和の条件を二つ出した。一つは百姓が田植えをできるように深田に入れた土俵を片付けること、そして石田三成方に投降した百姓を斬った者の成敗を掛け合ったのである。石田三成は快諾する。ここで成田家中の者は、北条方の支城で残ったのがこの忍城一つであったことを知らされる。石田三成はいう。「この忍城攻め、当方にははなはだ迷惑ながら、坂東武者の武辺を物語るものとして、百年の後も語り継がれるであろう。」そして著者はこうも石田三成に語らせる。「所詮は、利で繋がった我らが勝てる相手ではなかったのさ」と。
 成田氏長はその後大名となり、江戸時代初期に改易。著者によれば、断絶した成田本家とは別に、のぼう様・成田長親は尾張に移り、その子孫は代々尾州徳川家に仕えたという。(2008/3/1)