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書名 中世の東海道をゆく
著者 榎原雅治
初出 2008年4月 中公新書
「中世の旅人が記した文学資料を忠実に地図に描いていくとどうなるか」という「素朴な問い」に基づいて中世の京都から鎌倉に至る海道を再現したのが「中世の東海道をゆく」である。選ばれたのは鎌倉時代の飛鳥井雅有である。飛鳥井家は、藤原北家より別れ、蹴鞠と和歌を得意とする家柄であった。飛鳥井雅有は祖母を大江広元の女、そして妻を金沢実時の女とする鎌倉幕府に近い公家であった。京都のみならず鎌倉にも住居を持つ飛鳥井雅治は数度、東海道を行き来することとなる。彼の紀行文「東関紀行」「春の深山路」などを手がかりに中世の東海道がを再現された。
まずは鳴海潟である。鳴海といえば、桶狭間の戦いで織田方の防衛網の1つの柵があったところである。鎌倉時代、熱田宮(宿)から鳴海宿までは広大な潟が広がり、潮が引いたときに渉る東海道の道筋があった。「中世の旅のありようには、干潟をそのまま道として用いるというような、近代はもちろん、江戸時代の旅と比してもかけ離れた点が多い」と榎原雅治は指摘する。熱田宿は、対岸の鳴海宿と同じく潮待ちの宿であった。このような潟の存在は長年の開拓により田畑化され、今日では想像さえできない。太平洋側は潟が少なく、ために湾岸を経由する海路の開発が進まなかったという通説がある。しかし、大阪湾、和歌山市周辺、そして名古屋市周りの鳴海潟、浜名湖周辺、遠江国府の見付(現磐田市)、田子の浦付近そして関東平野も(江戸湾のみを見れば潟の存在は考えられないが、)霞ヶ浦から見れば湖沼地帯が広がっているのである。もちろん十三湖(十三湊)をはじめとする日本海側のたくさんの潟を良港とする海運の発達は太平洋岸の発達に比べようもなく古く盛んではあるのだが。
さて、潟の重要性に次ぐ論点は、河川渡河のありようである。河川渡河については二つの話をしている。前者は濃尾平野を貫く木曽川、長良川、揖斐川の大河とのかかわりである。いずれも現在の木曽川、長良川の川筋ではない、別の川筋の流れがあり、それを前提にした東海道の風景をイメージすることが求められている。そのなかで「武功夜話」やそれを題材とした津本陽の「下天は夢か」に描かれた木下藤吉郎の墨俣一夜城と、ここで示された栄えた渡河地点の宿のありようのギャップに関心をそそられた。当時、美濃と尾張の国境は木曽川ではなく墨俣川=長良川であり、東海道が長良川を渡る宿として墨俣は栄えていたというのである。「十六夜日記」では墨俣川を「堤の方はとても深くて、もう一方は浅かった」と描かれ、さらに時代が下って6代将軍足利義教の富士見物旅行(1418)に同行した連歌師によって「行人征馬ひまもなし」と述べられていることを榎原雅治は紹介している。そして「墨俣は木曾や美濃東部、あるいは飛騨といった木材山地と京都を結ぶ物流の結節点でもあったのである。情景を思い浮かべてみよう。墨俣川と古木曽川の分流境川が合流するあたり、川には上がり下りの舟が行き交い、川べりには多くの舟が停泊している。少し下流では古木曽川の本流足近川が合流し、川幅はさらに広くなっている。ここより下流での渡河にはより大きな困難がともなったであろう。」と述べている。この情景からすると、木下藤吉郎の一夜城の目的は(それが史実として)美濃攻略の拠点作りではなく、交易の市(宿)の確保にあったといえるのではないか。
このように濃尾平野という乱流地帯では流域変化を射程に入れた議論が必要であることを喚起している。流域変化は濃尾平野の大河に限らない。大井川、富士川なども、中世の紀行文では行く筋もの分流に分かれた浅い川が広がる(扇状地の)渡河地点として描かれている。江戸時代のように一本の深い川筋を想定してはならない。中州の開墾によって1つの川筋へと集めていった結果が今日見る「越すに越されぬ」大河となっているのである。大井川の渡河地点についても中世では下流の扇状地を横切る播豆蔵〜前島であるが、近世ではより上流の金谷〜島田に移っているのも、このような流域変化を前提としたことであることを明らかにしている。
さて、榎原雅治は今まで見てきたように地勢の変化に合った街道の変更、宿場の変化を明らかにしてきた。次に今まで使ってきた「宿」という言葉が、きわめて特異な言葉であることを論じている。関東に住んでいる者にとっては宿という言葉は身近な用語である。だが、全国的に見るとある政治的な意図に沿った用語であるという。榎原雅治は「居住空間をさす用語としての『宿』とは、もともと東国の武士たちの間で使われていた語で、軍営のことをさしていた。鎌倉幕府の成立後、幕府の政策によって、京都―鎌倉間の東海道、対モンゴル緊張期にはそれに加えて京都―博多間の山陽道をはじめとする国家的な重要通路が整備されたが、幕府の交通路整備は路面そのものの整備、管理までには力が及ばず、重点は馬継ぎや渡渉のための拠点の整備に置かれた。この拠点には将軍をはじめとする公用の旅行者の宿泊場所としての機能はもちろん、早馬の継立場としての機能も期待された。さらには史料への実際の現れ方から見れば、幕府の派遣する軍団の宿営地としての機能も期待されたのであろう。そうした機能を果たす語として平安時代以来用いられていた『宿』という名称が選ばれたのではないか。それによって『宿』は急速に全国に広まっていったのではないか。」と推断する。このような宿営地を維持管理する人々はだれであろうか。鎌倉幕府は在地の有力者を御家人として囲い込んだ。「駿河、遠江の宿々が同族関係にある長者たちによって支配さていたことは非常に興味深い。宿の長者たちの交通路掌握は、彼ら相互の人的ネットワークによって実現していたのであろう。国家の交通路政策においてはこの点がポイントになる。湯之上氏が明らかにしたとおり、興津氏は鎌倉幕府の御家人に組み込まれていたし、入江氏や岡部氏も同様であった。幕府は彼らを御家人として編成することによって、東海道交通の掌握を図ったのである。東海地方における御家人制とは宿の長者の編成を意味する、とすら評されるゆえんである。」と、極めて魅力的な分析を行っている。
その他、江戸幕府が決定した東海道とくに伊勢越えから桑名―熱田の渡海ルートの設定の政治的な意図も新鮮である。
「中世の東海道をゆく」が描くのは京から下る風景では右手に太平洋を見ながら、左手には潟を見て砂州の上を歩く旅人の姿である。その旅人はあるときは広大な潟の潮目を見ながら、あるいは扇状地の幾重にも広がる川筋を越えながら鎌倉を目指したのである。目指した鎌倉には京都とは別のもう1つの政治文化の拠点があった。摂関政治により古代国家が終焉を迎え、天皇家の親政の一形態である院政か成り立ち、他方かつて摂関家や院の走狗であった者たちが作り上げた武力政権である鎌倉幕府とが二重権力状況を作り出していた。その結果としての二都の交通路が発達した背景の下、東海道が点(宿)として整備され行き交う人々が紀行文をしたためた。紀行文を地図上に落としこんで榎原雅治は中世の東海道を再現した。それが「中世の東海道をゆく」であり、読者は中世の風景を感知することができる。(2008/5/1)