楽書快評
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書名 平泉
著者 斉藤利男
初出 19922月 岩波新書
中尊寺金色堂 平泉を古代末期の都市として解明しようとしたのが、本書である。平泉といえば中尊寺である。中尊寺は関山中尊寺である。関とは衣川の関であり、蝦夷の支配する奥六郡とを分かつ境界の山に中尊寺が立てられ、衣川柵を出て陸奥国磐井郡の平泉に奥州藤原氏は南進したのである。山一つ隔てただけだが、奥六郡の主から、奥州全体の主の都として平泉が建設された。
 「平泉」という名前の由来について、北上川沿いの「平泉の台地には、猫間が淵や鈴沢などいくつかの沢が入り込み、和泉酒、独鈷水、桜清水など、湧水も各所にある。『平泉』という地名自体、湧き水の豊かな土地に由来するという説もあるほどである。」
中尊寺から北上川を望む このような立地に立つ都市平泉の性格を斉藤利男は解き明かす。平泉の中心である平泉館(たち)の遺跡発掘から判明することは儀式と宴会の世界だけであり、政治統治の政庁に当る遺跡や庶民の日常生活を垣間見せるような町屋の跡が貧弱なことである。実は宴会政治の場である平泉と衣川北岸に発展してきた衣河の商業地域とが一体となった複合都市として成り立っていたと、斉藤利男は述べる。「ここに私たちは、ようやく中世都市平泉の全貌をつかむことができる。それはかつての国境線『衣川』にまたがり、その南北の地を統合していとなまれた都市であった。関山中尊寺は『衣川』の南岸にあり、もとは堅固な要塞『衣の関』がおかれていた。そうした一種の国家的境界としての性格が、奥州藤原氏の成立によって解消し、境界を開放して“平和の聖域”としての中尊寺が創建される。そして、この寺を中心に新たな性格をもった都市平泉が成立する。」と(中世都市であるのか、古代末期の都市であるのか。次に斉藤利男が述べる先例の事柄から見て中世都市とは思えない)。では、このような都市のあり方に先例はるのか、と話に進む。軍事首長のベースキャンプという論はとらず、都市平泉の特徴である周濠をめぐらした政庁型の施設の原型を律令国家が建設した古代城柵に求める。鎮守府の置かれた胆沢城(岩手県水沢市)がモデルだというのである。
雪の毛越寺園庭 なお、平泉にある中尊寺を奥州藤原氏の霊廟を祭る氏寺、毛越寺を白河院が源氏撲滅を祈って建てたという法勝寺を模した国家鎮護の寺、そして平泉館近く秀衡の持仏堂・無量光院というそれぞれの寺院の相違を斉藤利男は明らかにしている。この点も興味が持たれた。
 奥州藤原氏が栄華を極めることができたのは、藤原秀郷流の藤原氏であり、鎮守府将軍の家柄であったことを斉藤利男は繰り返し述べている。俘囚の出身ではないことの強調である。だが、この点の強調が良くわからない点でもある。摂関政治の頃にあっても秀郷流は、軍事貴族であり、それだけで中央政治との強固な結びつきを意味することではない。中央政治といっても摂関政治と院政では大きな相違がある。時代は摂関政治から天皇家による親政の一政治形態(院政)に移る時代である。だから傍流藤原氏を名乗るだけで、中央政治との関連が生れたという分析も可能だ(斉藤利男はこのようには分析をしないが)。俘囚の長の出身であろうと、都落ちした傍流藤原氏の出身であろうと、院政にとっては問題ではない。院政の政治体制の一翼を担う奥州藤原氏であるかどうかであった。一翼を担うことで成り立った奥州藤原氏の前に出現したのは、院政との微妙な関係を維持しつつ奥州をも得ようとする頼義、義家の流れを強烈に意識する清和源氏の主・頼朝の姿である。
 都市平泉は奥州藤原氏の滅亡後も、鎌倉軍事政権下の奥州惣奉行葛西清重の現地居住地であった。が、鎌倉と北との道が十三湊や秋田湊に移るとともに衰退していった。江戸時代では「つわものどもがゆめのあと」しか残っていなかったのである。(2008/5/8)