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書名 福島正則
著者 福尾猛市郎 藤本篤
初出 1999年 中公新書
小布施は、静かな田舎町である。この町外れの雁田に曹洞宗梅洞山岩松院(がんしょういん)がある。ここは「北斎・正則・一茶ゆかりの古寺」である。本堂内の天井には葛飾北斎描くところの八方睨みの鳳凰図が広がっている。案内文によれば、豪商高井鴻山(栗ようかんの小布施堂や桝一市村酒造の祖)に招かれて小布施を訪れていた北斎の没前年、89歳の折の大作である。
また本堂脇の古池は「やせ蛙まけるな一茶ここにあり」と詠まれたところである。一茶が病弱なわが子に向けて励ました一句であるといわれている。時に一茶54歳、励ましも虚しく一ヵ月後には他界したという。
岩松院の裏山を上ったところに福島正則の霊廟がある。なぜにこのようなところに霊廟があるのか、思い至らぬ参拝客も多いように思われた。この地は、福島正則が広島城無届修築を問われて安芸・備後両国49万8千石を奪われ、没落した後の蟄居地なのである。1919年 元和5 三男福島忠勝が越後魚沼郡と信濃川中島高井野とで併せて4万5千石を給され没するまでの5年間を過ごしたところである。
豊臣秀吉の姻戚であるとも言われ、賤ヶ岳の七本槍の筆頭となるなど武勇に優れ、豊臣秀吉の全国統一に伴って立身出世した人物である。だれでも知っている歴史上の人物としての彼は、同じ豊臣恩顧の大名でありながら石田三成と対立し、関が原の戦いでは徳川家康に付き東軍の将として功名をあげる。西軍の大将に祭り上げられた毛利家が築いた広島城の主となった。政権交替の時期、より強い者に乗り換えたわけである。大阪の夏の陣が終り、徳川家康が亡くなると、豊臣恩顧の大名の意義も、それを必要とした時代も過ぎで、裏切り者が消えていく其の時がきたのである。台風被害の修復を口実とした改易が、夏の陣の4年後に訪れた。「福島正則」ではこの経緯を「台徳院殿御実紀」を引用している。
「福島左衛門大夫正則は、関原の一戦に御味方して軍功をはげみけるにより、安芸・備後の領国を給わり、その身参議にまであげられしに、この人資性強暴にて、軍功にほこり、朝憲をなみし、悪行日々月々に超過して、芸備の人民常に其暴政にくるしむ。あまつさえ居城広島に於て、恣に城櫓壁塁を増築し、天下の大禁を犯す。これゆるし置るべきにあらずとて・・・・」
こうして配所に暮らすことになった福島正則は子正勝が改易された次の年に没すると、4万5千石のうち越後の2万5千石を返上する。正則が亡くなると徳川幕府は堀田左衛門正吉を検死に遣わしたが、到着以前に荼毘に付されていた。これを咎として徳川幕府は公収し大名福島家は廃絶した。検死を待たずに、荼毘に付すという行為が、何をもたらすかを知ってのことだろうが、違和を覚える。戒名は「海福寺殿前三品相公月翁正印大居士」(2008/7/20)