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書名 水の葬列
著者 吉村昭
初出 1967年 展望 (1991年 吉村昭全集第15巻)
「鋭い勾配をしめした萱葺屋根をおおっている苔の厚さの異常さであった。さまざまな蘚苔類がそこに群生しているのか、雨水をたっぷりふくんだ緑は、重々しく濡れて光っている。それは、艶やかな剛毛に装われた巨大な生物が、体を並べ合ってうずくまっているような感じさえした。」主人公「私」の目を通して描かれた集落の姿である。「私」はダム建設のために入ってきた労務者のひとりである。人知れず歴史を重ねてきた山間の集落を、巨大な生物を、滅ぼすためにやってきた先遣隊のひとりなのである。しかし、その男はこの集落に、親しみの匂いを嗅ぐのであった。つながれていた刑務所の匂いである。
「水の葬列」はK(黒部と思われる)川を遡った落人の集落が、ダム建設によって滅んでいく様と、妻の不倫を憎んで撲殺した過去を持つ「私」が人里離れたダム建設現場に逃れて生きる姿とを、重ねて描いたフィクションである。「私」は、都会の喧騒を逃れて、人里はなれたダム建設現場を点々とする人生を選んでいた。小説の構造は複雑ではない。ダム建設により水没する集落の悲劇にリアリティを与えるために、妻殺しの過去を持つ作業員を登場させた。そして欲望が渦巻く人生からの浄化に思い及ぼさせる。構造は単純でも、描かれた小説世界は森閑として美しい。
労務者の一人に犯された集落の娘は、ある朝、首吊り死体となった。その後、桐の木に長く吊るされたままに放置され、犯人の男も水死体となって発見された。村の掟の厳しさがそこにはあった。この事件は「私」に、改めて過去を思い出させた。彼は母や妻、そして娘たちから与えられた裏切りのダメージから逃れられないのである。
ダム水没の補償交渉は、思いのほか速やかに進み、集落は追い立てられる時を迎える。村人は墓石を覆し、死者の頭を取り出して白木の箱に収め、そして苔むした家々に火を放ち、白い葬列となって去って行った。その行為を「私」は衝撃の眼差しで、見ている。実は、出所した彼は妻の墓を暴き、足指を取り出して持ち歩いていた。妻が安穏として墓に眠ることを許すことができなかったのであった。それは一体感の回復を願う行為であったのかもしれない。村人が行ったのは祖先も含めた集落の一体感からであり、住む場所を離れても永遠に一体となって生きていく為の所作であった。その中には吊るされた娘の白骨化した頭も、白木の箱につめられて背負われている。
「私の体の中に、うつろな空洞がひらいた。同時に、その空間に不意に得体の知れぬ重々しいものが奔流のように流れ込んできた。私の傷手をいやしてくれた部落が、今、この谷から消えて行く。長い年月蓄積された人骨を背負って、私の視野から姿を消してゆくのだ。」
その葬列の人々はどこに向かうのだろうか。「私」は、集落を追われた村人が、わずかの補償金を掴んで都会の喧騒に沈んでいく道しか思い描けなかった。見たものは予想だにしなかった光景であった。「私は、何気なく背後をふり返ってみた。体が硬直した。白い流れが、はっきりと望まれた。列は、人里の方向にむかわず、さらに山脈の奥へとむかっている。峰々には、雪の輝きがそこまでせまっている。その中を白い流れは、雪の白さに同化するように進んでいる。私は、眼を大きく開いてその流れを見つめた。かれらは、落人の血の宿命にしたがって、人の目を避けてさらに山の奥深く行くのだ。」艶やかな剛毛に装われた巨大な生物が、体を並べ合ってうずくまっているような集落が雪山のどこかにまたうまれるのであろう。
「私」の心に平和なときは訪れるのであろうか。だが、一人孤独な落人には集落がない。(2008/7/26)