楽書快評
トップページに戻る
0170


書名 故郷の廃屋
著者 饗庭孝男
初出 20041,2月号 「新潮」
 饗庭孝男は両親から「狐を馬に乗せて走ったようなところがある」(自分の行く先をきちんと考えないうつけもの)と考えられていたほど生活感の乏しい、人生を経てきたのであろう。それは極端に病弱であることも影響していた。年老いた父が病院に入院した折に、車椅子を押す饗庭孝男に名古屋時代に父子二人同居して自炊した時代を回想して「お前は気むずかしかったから、どんなものを食事に出していいか悩んだ。またお前を哀れに思う心はいつも食事の心配と一緒だった。』と振り返って父は語る。小学校2年次には滋賀県でもっとも成績の良い生徒に与えられる賞(佐和山神社の佐和山賞)を受けてはいるが、病弱な彼はよく学校を休んで父の5千冊の蔵書を読んですごした。戦時中には中学動員の作業中に過労から結核をわずらい、又名古屋時代には押されて転倒したため半月版を損傷するなど、手のかかる子どもとして大事にされて育った。
 その彼が、近江国湖西地方を名字の地とする饗庭氏の一員として「私歴史」を描いたのが「故郷の廃屋」である。当時教職にあった双子の兄が休みの日に家に帰るとオルガンで弾いていた「故郷の廃屋」から題名が取られている。そしてこのように呟く。「歌のとおりになった。仏壇に父と兄の写真がかざってある。荒れ果てた庭に、秋になると、それでも白いはちすや萩が美しく咲いた。母の使っていたお花やお茶の道具がある。」
 饗庭孝男の「私歴史」は愛憎深い文章表現となっている。自分を大切にしてくれた親族や恩師・隣人への限りない愛と、粗末にした人々への憎しみを隠すことなく描いている。特に疎開した折につらく当った母方の祖父母へのこだわりは長く続いた。中学生への動員指令で干拓に加わり、帰ってからも家事に使われた孝男は結核に倒れた。それを聞いた祖父は疎ましげな顔になり「困ったものだ、怠けるからこういうことになる」と話して早速母に引取りを求める手紙を書くのであった。孝男は祖父母の葬式に出ようとはしなかったのである。
 また小学校の頃からいつか自分は物を書く人間になってみたいと念じた饗庭孝男が、仏文学者であり文章家という自分の現在を、風土の歴史から必然として導き出そうとしている。湖西地方は、中江藤樹、熊沢蕃山などを生んだ土地柄である。そして古くは渡来系の人々が文化を持ち込んだ土地柄である。渡来人がもたらした精神文化への憧れと向上への志が貧困にもめげずにいた先達に顕れたと饗庭孝男は考えている。その中でも安曇川の北と南では風土が違い、それは母の実家と父の実家との家風の違い至りつく。
 「私は時折思うことがある。母の実家、横井家には、饗庭家のような、何か悲劇的なものがまといついていない。明るくて陰がない。母の弟も妹も、時を得て自然のように亡くなっている。彼らは森の中の古い樹々が倒れるように死を迎えた。私は思い出す。前にもふれたが、母と叔母が京都の女学校へ留学していて、夏休みになると、琵琶湖、安曇川の舟木崎で船を下り、人力車にのって花のような傘をさして帰ってくる姿を、近在の人々が倖せのシンボルのように見ていたこと。そして、祖父のたのみを振り切るようにして家を出、又、葦の陰で祖母に泣かれながら同じ舟木崎から船に乗って出て行った若き日の父の姿を対照的に思い出すのである。」母方の祖父母から見れば孝男の存在は、戦時中という厳しさとあいまって、不幸のシンボルのように受け止められてしまったのかもしれない。それもまた風土に根ざした家風の違いだったのであろうか。
 膳所藩の代官を務めた家柄にあって祖父は「御維新」の時代の波に乗れず神童と呼ばれたものの20歳で村長をし、30歳台のはじめに職を辞した後78歳で肺壊疽で亡くなるまで田畑を売り、借金を重ねながら酒を飲み漢籍を読んで過ごした。同様に父も神童といわれたが没落した家にあって学費が無く中学に入れなかった。中江藤樹を範とする父は苦学力行の人であり、代用教員をしながら勉強して16歳で滋賀師範学校に合格し、祖父が作った饗庭尋常高等小学校の訓導となった。その後も勉強を続け「文検」に合格して広島高等師範学校に入るために29歳で家を出てから、没落した旧家の跡取りとして祖父が残した戦前の金で2万円の借金を背負い、滋賀県での教職そして名古屋市での官吏の生活を送った。58歳で退職し1人故郷を守っていた妻のもとに帰り、晴耕雨読の毎日であったが、やがて老いとともにパーキンソンニズムを発症して亡くなる。
 父の葬儀の様子が描かれている。集落の人々によって営まれた葬儀はつぎのような土俗的な雰囲気に覆われていた。「夜となると、父の遺体を安置した奥の納戸に、村の中年から年寄の女たちがあつまり、円をつくって夜伽を行う。これを『地蔵和賛』といい、彼女たちの観音講に用いられる読経であり、たとえば『むしよりわれら るてんして/いつかじょうじを はなるべき/ろくしゅりんねの ありさまは/くるまのめぐるがごとくなり』というその一部にうかがわれるように、きわめて庶民的であり、輪廻の思想にうらうちされた生死を離れる祈りが『口寄せ』的な巫女の主導によってくりひろげられる。それはさらに数十人が操ることのできる大きな数珠まわしによってしめくくられるが、読経と数珠まわしの回数は、巫女の前に置かれた古い膳上に重ねられる札の数によってきまってゆく。」 
 長兄は大学を出た後、大津で開業医となり、すい臓がんで入院し、手術による院内感染によって60歳で亡くなる。「高島町の南、湖に突出た北小松の美しい赤松の疎林の中にスペイン風の別荘をつくったが、彼はほんのわずかの年しかそこですごしていない。」孝男は夢の中で「僕はまだ死にたくない」という兄の叫びを聞くのであった。
 孝男と双子の次兄は滋賀県師範学校を出て滋賀県の教職についた後、30歳で発起して弁護士となり医療事故のスペシャリストとしてハーバード大学の医学部への招請を受けるなど活躍したが、過労のためか55歳で無念のうちに亡くなってしまう。
 父そして兄弟にみられる湖西地方に受け継がれた精神文化への憧れと向上への志、そして内在する悲劇性を「私歴史」として描いたのが「故郷の廃屋」である。それはまた、饗庭孝男の存在証明でもあった。さらに登場人物は饗庭孝男の同世代の人々までであり、子どもたち世代が描かれていないことで「故郷の廃屋」の物悲しさが際立つという構図となっている。あたかも「故郷の廃屋」では湖西地方の文化が絶たれてしまうように読んでしまう。たとえば歴史物でいえば森鴎外は「渋江抽斎」をはじめとして必ず子孫にも筆が及んだ。鴎外にあっては渋江抽斎の精神性はつながっていくもの、いかなければならないもの、とされている。この相違を感じないわけにはいかない。(2008/8/24)