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書名 鎌倉北条氏の興亡
著者 奥富敬之
初出 2003年 吉川弘文館
武家政権を創り出した源頼朝の姻族である北条氏がクーデター(宮廷革命)を繰り返しながら政権を奪取した物語である。鎌倉を治めていた平直方につながる伊豆国の在庁官人・北条氏の庶流であった北条時政が娘政子の婿・頼朝に加担したところから北条氏の運が開けたといってよい。この一族の歴史を丁寧に通史として描いたのが「鎌倉北条氏の興亡」である。
この本の中で、私が参考になったことを2点に絞って挙げてみたい。一つは塩田北条氏にかかわることである。塩田北条氏は、長野県上田市の別所温泉が有名な塩田平を領した北条氏でありわずか三代ではあったが、国宝安楽寺八角三重塔など信州の鎌倉といわれる文化を開いた一族である。初代北条義政は蒙古来襲を迎える時期、時宗の連署であったが、突然に出家し塩田の地に逃れてしまった。この事件を次のように解き明かしている。
蒙古来襲に対して、蒙古との和親派(朝廷を中心とする)や専守防衛を掲げる幕府御家人層と、外征を掲げる北条一門との対立が続いていた。第1回目の文永の役直前では、鎌倉幕府の対蒙古強硬政策に対して朝廷では和親傾向があり、これに六波羅探題南方である北条時輔(時宗の異母兄)がつながっていることを疑われ誅殺される2月騒動と呼ばれる事件が起こっている。この後に北条政村の死去を受けて北条義政が連署となっている。2度目の蒙古来襲は必然と考えられていた。北条一門の金沢実時が高麗遠征を主導した。その実時が1276年建治2年10月23日に亡くなると御家人層が主導する専守防衛が強まった。「金沢実時が死んだのは、決定的だった。直後の12月、赤橋義宗が六波羅探題を罷免され、建治3年4月、塩田義政が、突然、連署を辞任したのである。」北条一門に代わって力を蓄えたのは時宗の外戚(妻の父)である安達泰盛である。さらに霜月騒動で御家人層を代表する安達氏を滅ぼして実権を握ったのが御内人代表である内管領平頼綱である。
もう一つは後醍醐天皇に倒幕を決意させたのが、奥州安東氏ノ乱であろう、という推測である。「かつて北条義時は、得宗領の多い陸奥国北半支配のために御内人の安東氏を代官に任じて津軽に置き、奥羽両国及び渡島の蝦夷支配にあたらせた。これを蝦夷管領という。」その後安東氏は十三湊を基盤とする嫡系安東貞季(下国家)と、庶系で出羽国に勢力を築いた秋田安東氏(上国家)が家督と蝦夷管領職をめぐって対立し、これに見て起きた蝦夷蜂起が奥州に混乱を招き、事態収拾が長引いた。その一つは内管領長崎高資が両者から賄賂を貰い事件の決着がつかなかったことがあげられ、家督を取り上げられた貞季が反抗し、又蜂起した蝦夷追討に1年5ヶ月もかかる事態を引き起こした。「幕府の面目は丸潰れだった。幕府軍事力の弱化が、天下に暴露された。この間、様子を見ていたい後醍醐天皇は、着々と討幕の支度を整えていた。」奥州での不始末、それも北条氏の身内の問題である得宗御内人安東氏への対応、が討幕の引き金になったというのは魅力的である。
清和源氏から北条氏へ、有力御家人を族滅しつつ鎌倉幕府内の実権が移る。その北条氏は得宗支配を強めながら、北条一門の没落、外戚の安達氏の台頭と北条氏の家政を担当する御内人の実権掌握、という鎌倉幕府内部での権力構造の変化がおこった。これととともに、幕府の公式機構、たとえば侍所などが機能しなくなり、時の権力者たちの非公式な寄り合いで政治が行われるようになった。結果、度重なるクーデターを必然として武家政権内部の弱体化が進んでいったともいえると思う。(2008/9/22)