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書名 稲作渡来民
著者 池橋宏
初出 2008年 講談社選書メチエ
稲作が日本に伝播されたことは知っていても、どこからどのような形で誰が伝えたのかは諸説がある。池橋宏は稲作の特殊性からそれを持ち込んだ渡来民に焦点を当て、日本人の成立を論考した。
稲作の特殊性とは何か。「野生イネは基本的に多年生の沼沢植物であり、それが温暖多湿の気候で湿地において栽培化されたことに着目」する。種を蒔かず株分けで栽培する農耕スタイルがもともとのあり方であった。これは畑作と相違した独自の穀物作であり、「水田は、長い間かけて工夫された施設であり、そこには単に連作が可能であるというだけでなく、土壌の肥沃性の維持や、雑草のすき込みと湛水による駆除、降雨による土壌の流出防止など、多くの利点があった。」そして、畑作と狩猟とが補完性があるのに対して、水田稲作と漁撈は「生態学的にも、人間の栄養の上からも補完的である。こうした水田稲作のすぐれた特性がこの地域で農耕社会へと人々を導いたのである。」と見ている。この水田稲作は長江の中・下流域に住んでいた「越」−タイ系に人が担っていた。
日本への伝播に関しては、呉越勢力が春秋時代後半に山東半島へ進出したことに着目して、(紀元前334年の越の敗北で日本へ逃避したより前に)山東半島から朝鮮半島経由で一気に持ち込まれたことを想定している。山東半島や朝鮮半島では畑作が多く、狩猟・遊牧民の勢力も強く、論証が難しいところである。朝鮮半島南部と北九州に住む「倭」はこの越系渡来民への中国中原を支配する人々が与えた名称であるという。池端宏は言う。「朝鮮半島に定着した稲作民とは別に、朝鮮半島を一時的な中継地として、日本に渡来した一団の人々があったという大胆な推論もできる。」漢民族(その当時に現代でイメージするような漢人がいたかどうか)や朝鮮民族(同様に朝鮮民族として形成されていたかどうか)ではなく越(タイ系)人が、現代の日本列島に住む人々のルーツであるというのも論点の一つである。
縄文時代を通して日本に住んでいた人口は多く見積もっても20万人を超える程度、そこに繰り返し稲作農耕・漁撈を担う人々が渡来し、生産力の高さに比した爆発的な人口増加によって、縄文人から弥生人への入れ替えをもたらした、と池橋宏は考えている。文化人類学者・埴原和郎の紀元前3世紀から7世紀の1000年間で渡来人の人口は日本人全体の70〜80%に達したとの主張を引きながら、傍証としている。狩猟を基本とする縄文人が稲作を身につけて、弥生時代を創り出したのではなく、高度の水田稲作・漁撈文化を持つ渡来民が新たな時代を築いた、と把握している。
池橋宏は次のように弥生人(越系渡来民)を描いている。「私は、舟を駆使して移動性に富む稲作渡来民が、水田稲作の圧倒的な有利性を背景として、はじめから水田の適地を求めて渡来、移住したものと考える。彼らが、弥生時代を開いた。朝鮮半島支部の松菊里遺跡の稲作民についていわれているように、『低地と低い丘陵』とが入植地の目印であった。初期稲作民にとっては、大規模な工事をしなくても、稲作の用水を入手する必要がある。それには、深い森から年中ほぼ間断なく流れてくる水をせき止めて水田に引き入れることのできる浅くてやや広い谷間が好適である。さらに、水路は交通にも使える。また、水田稲作民にとって魚介類は不可欠の栄養源であるから、潟、湖など、外海に出なくても豊富な魚介類が採れるところがよい。また魚の繁殖のうえで、稚魚が育つような小川や浅い水路が必要である。」
池橋宏はこのほかにも弥生人の漁撈にも言及し、舟の構造について貴重な論考を行っている。さらに日本語の成り立ちについても渡来民の影響を検討している。
「稲作渡来民」は偏狭なナショナリズムと無縁のところで日本人を考えている。温暖多湿の地域の特性にあった水田稲作・漁撈を生業とする越人(タイ系)が低地と低い丘陵を求めて東アジアから東南アジアまで広がっていった一環のなかに日本人の成り立ちを、池橋宏に習って思うとき、ジャワ島の棚田が、雲南省の棚田が、そして日本の各地に広がる棚田が同時に浮かび上がってくる。日本だけが美しい国ではないのだ。(2008/10/5)