楽書快評
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書名 ああ玉杯に花うけて
著者 佐藤紅緑
初出 19275月号〜1928年3月 少年倶楽部
 「このねぎ畑のところへくるとかれはいつも足が進まなくなる。ねぎ畑のつぎは広い麦畑で、そのつぎには生け垣があって二つもの土蔵があって、がちょうの叫び声がきこえる。」と昭和初期の浦和(さいたま市浦和区)の町が描がかれている。この浦和の町を舞台に旧制浦和中学校、旧制師範学校、そして私塾黙々塾に通う男の子たちの友情と対立の物語である。底にあるのは幼い正義感が、国権の強化につながる有為な人材として立身出世することに結びつく考え方である。学問を積んで旧制1高(現在の東京大学教養学部)に入れば将来は約束されるのであった。「ああ玉杯に花うけて」は旧制1高の寮歌である。このような単純な図式が夢を与える「少年小説」として喜ばれたのであろう。
 渦巻く貧しい人々と豊かな人々との反目、政治と利権に支配される小さな地方都市・浦和の様子は読んでいてリアリティがある。それは今日でもありふれた地方都市の姿であるからだ。
 この小説は前半(16)と後半(712)で展開が途切れる。前半は小学校のときは学力優秀であったが今は叔父の豆腐屋の手伝いをしている「チビ公」こと青木千三と町の助役の子であり浦和中学校に通う生蕃こと阪井巌との対立が中心である。「どうしてあんなやつにこうまで侮辱されなきゃならないんだろう、あいつは学校でなんにもできないのだ、おやじが役場の助役だから威張っているんだ、金があるから中学校へゆける、親があるから中学校へゆける、それにおれは金も親のない。なぐられてもだまっていなきゃならない、生涯豆腐をかついでらっぱをふかなきゃならない。かれの胸は憤怒に燃えた。かれはだまって歩きつづけた。」この千三をかばうのが小学校の同級生であり、「古来の関東気質の粋をして豪邁不屈の校風」を持つ浦和中学校に通う柳光一である。
 子どもたちも巻き込んだ浦和の町の政治状況が一変する。助役である阪井猛太が自らの所属する政党の多数を頼み、また助役である地位を利用して不正工事を起してそれを自党の政治資金していたことが判明し、辞職に追い込まれる。この過程で息子の巌はあることを悟る。「腕力で人を征服するよりも心のうちから尊敬されるのが本当にえらい人です、カンニングして試験をパスするよりもむしろ落第する方がりっぱです、人に罪を着せて自分がえらそうな顔をしていることは、一番はずべきことではないでしょうか、ぼくはおさないときからお父さんには浦和で一番えらい人とそれをじまんにしていました、だが今になって考えるとぼくは浦和中で一番卑等なお父さんをもっていたのでした」父親からの精神的な自立を得た巌は「周処三害」(不良少年の周処が母の言葉によって村の自分が三害のひとつであることを悟り、自分は品行を正しくして村に太平和楽をもたらした)という言葉に導かれ改心するのであった。阪井親子は浦和を追われ川越に逃れ「浦和の町は太平である」となった。この前半が大宮台地の端にある畑のつながる風景を背景にして地方都市の姿を活写していて好ましい。
 突然、後半は少年間の抗争に限られていく。豆腐屋のチビ公は叔父の豆腐屋がやや軌道に乗ったこともあり、学費のかからない私塾黙々塾に入れるようになる。昼は豆腐を売り夜は塾に通う毎日が始まる。挫けそうになる千三を黙々先生は自ら創り出した思われる青木家の由緒書を取り出して北畠親房につながる南朝の忠臣の家であることを説き「君の精神のうちに祖先の魂が残っているはずだ、君は選ばれた国民だ、大切な身体だ、日本にはなてはならない身体だ、そうは思わんか」と。没落した家の子どもとしての引け目を、より大きな系図に結びつけることで克服した千三は、黙々塾出身の1高生安場五郎を紹介され、発奮して同じ道を歩むことを誓うのであった。
 発奮は階層化された子ども社会を跳ね返す具体的な目標を持つ。それは浦和中学校との野球の試合である。黙々先生は安場に言う。「どうかして勝たせてもらいたい、わしが生徒に野球をゆるしたのは少し考えがあってのことだ。この町の者は官学を尊敬して私学を軽蔑する、いいか、中学校や師範学校の生徒はいばるが、黙々塾の生徒は小さくなっている、」として自尊心を植えつける意図を語る。その意図通りに「黙々は勝った、波濤のごとき喝采が起こった、中立を標榜していた師範学校生はことごとく黙々の味方となった。安場が先頭になって中学の正門で凱歌をあげた、そうして町を練り歩いた、町々では手おけに水をくんで接待したのもあった。」当時、刺激のない地方都市では大いに興奮させる出来事であっただろう。光一と千三は試合後、ともに1高を目指すことを誓い合うのであった。貧しき者の子も、富める者の子も勉学ひとつで道が開ける、と作者である佐藤紅緑は話を導いていく。ではどのような人材が日本に必要なのか。
 それは富める者内部での対立として描かれる。豊かな生活を享受している光一の妹文子に迫る堕落の危機として描かれる。豊かな医者(その家はかつて青木千三が住んでいた)の息子手塚は浦和中学の学業よりも遊びに現を抜かしていた。かれは遊び仲間を介して文子を仲間に引き入れる。遊びとは西欧風の放縦な画面が写される活動写真であり、豪華な料理の会食である。そして芝居である。やがて文子は金をたかられるようになる。文子を呼び出す手紙を「千三より」を使う悪知恵をもっていた。
 このような子ども世界の情景を背景において、「浦和弁論会」が師範学校の大講堂で行われる場面に移る。野球大会と同じように子どもたちの対抗と交流の場である。「英雄」についての論争で手塚と柳とは厳しく対立する。手塚を駁して「手塚君は英雄は個人主義である、英雄は民衆を侵掠したといった、・・・ナポレオンを島流しにしたのは国民であったが、かれを帝王にしたのも国民であったことをわすれてはならない。・・・ぼくは正義の英雄を賛美する」と。その帰り道、駁された手塚は遊び仲間を誘って光一への待ち伏せを図る。千三は光一を助けに、さらに安場も駆けつけて逆に手塚たち電柱に縛り上げてしまう。こうして「ああ玉杯に花うけて」は小説の展開を終る。
 だが、佐藤紅緑は蛇足を加えずにはいられない。「もし諸君が人々の消息を知りたければ6年前に1高の寮舎にありし人について聞くがよい。青木千三と柳光一はどの室の窓からその元気のいい顔をだしてどんな声で玉杯を歌ったか。それから1年おくれて入校した生蕃とあだなのつく阪井巌という青年が非常な勉強をもって主席で大学に入ったことも同時に聞くがいい。」と。さらに安場五郎がロンドンの日本大使館に赴任して活躍していることも語られる。この蛇足がなくしては読者の地方少年たちは、確固とした夢をもてなかったであろう。
 セピア色した小説であるということは易しい。だが、格差が広がる現在の大人や子どもたちの姿がどれほどの違いがあるのか。それを思わずにはいられなかった。手塚はどうなったのであろうか。医者の家を継ぎ、地方都市で道楽三昧の生活をしたのであろうか。小学校のとき、勉強のできなかった八百屋の豊松はどうなったであろうか。青木千三のように「ああ玉杯に花うけて」を歌うこともなく、八百屋の家を継ぎ「金持ちはいいなあ」と呟いて生きているのであろうか。学力はあるが金持ちの家の子ではないため、師範学校に入った子どもたちの教師となるしかなかった子どもたちの心のうちも、佐藤紅緑の意識の外にあった。佐藤紅緑が描いた正義の英雄として日本国家の人材となり立身出世する以外の人々も、浦和の町にはいたのである。紅緑が少年小説の舞台を浦和にしたのか、あるいは黙々塾のモデルがあったのかは不明。
 佐藤紅緑は本名を洽六といい、1874年 明治7に旧津軽藩士である佐藤弥六の次男として弘前市に生れる。父・弥六は福沢諭吉に学び、帰郷して県会議員となるなど地方政治の世界で活躍した人物である。今東光は「佐藤の家は弘前の母親の実家の隣で、・・・学終えて弘前に帰ったが、性きわめて狷介のためいろいろの事業に失敗して隠棲していた。」(吉原哀歓)と述べている。新聞「日本」の発行者として有名な陸羯南が遠縁であることから洽六は頼って上京、紅緑として正岡子規の影響で俳句をはじめるが、やがて大衆小説、少年小説で名声を博する。紅緑の子どもである詩人サトウハチロー、小説家佐藤愛子は異母兄妹。(200811/3)