0175
書名 北條龍虎伝
著者 海道龍一朗
初出 2006年 新潮社
「北條龍虎伝」は厳島の夜戦、桶狭間の夜戦とともに三大夜合戦の一つとして謳われる川越夜合戦と、それにいたる後北条三代目氏康と妹婿綱成とが龍虎として育っていく物語である。少年たちの成長が記されていることから、単なる戦記物ではない、表現の豊かな物語が展開している。例えば氏康(幼名新九郎)が始めて綱成(当時は福島勝千代)を認めた時に、2代目当主氏綱は戒めて「よいか、新九郎。大将という者は家臣を選ぶものではない。家臣から選ばれる者なのだ。家臣とて駄目な大将は見限り、他家へと鞍替えする。ゆえに大将となろうとする者は、それにふさわしい器量を持たねばならぬ。よって己れより優れた者を羨む必要はない。人より秀でた才をもった者が、己の家臣になりたがるような徳を身につければよいのだ。人は、徳に惹かれる。才はひとつのものだが、徳とは多くの才を集めたものだからだ。加えて、家臣の才を見極め、認めてやることが肝要なのだ。」と。新九郎や勝千代たちは稽古仲間とともに武芸や学問を学び、風間谷に住む小太郎との模擬戦によって領民仕置の仕方を会得していく。16歳の初陣の小沢城攻めでは挫折を味わい、やがて立ち直るなかで、初陣で受けた左頬の刀瘡の影響もあって、もの静かだが凄みのある「氷龍の相」に氏康は変貌した、と海道龍一朗は描いている。北条綱成が地黄八幡の旗指物を翻す「焔虎」となって、川越城を預かる武将に成長していった様子も書かれている。
後北条氏をテーマする歴史小説は少ない。歴史小説のほとんどは、江戸時代、遡っても戦国時代までがほとんどである。鎌倉時代となると永井路子の名前が浮かぶくらいでぐっと少なくなる。戦国時代でも、ほとんどが織田信長、豊臣秀吉、徳川家康あるいは武田信玄、上杉謙信、毛利元就などに限られている。徳川政権につながる歴史の本流か大名家として残った一族がほとんどである。駿河から進出して小田原を基盤として台頭し、関東を席巻した後北条氏についての歴史小説は多くはない。関東に住む者にとっても室町から戦国時代の興亡は鎌倉時代に比べてなじみが薄いのではないか。
はじめて天守閣を築いた松永弾正や蝮の道三と呼ばれた斉藤道三に比べても下克上の代表的な人物である後北条氏の初代伊勢新九郎についても知られていない。室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏の支流で、備中国荏原庄(現井原市)で生まれたという説が有力である。伊勢新九郎は、足利一門の名族であり駿河国に君臨する今川家の内紛に乗じるかたちで、親族の娘(妹とも言われている)が産んだ嫡男竜王丸(今川氏親)を擁して勝利をもたしたことで歴史に登場する。駿河東部の沼津(興国寺城)を根拠地と定めて、次に伊豆国堀越にいた足利茶々丸を攻めて伊豆国を領有し、さらに相模国に進出、狩に乗じて小田原城の大森藤頼を滅ぼしたと史伝では伝えられている。伊勢氏から北条氏へ氏を変えたが、それは鎌倉幕府の執権であった北条氏と同じ氏姓を名乗ることで関東での覇権を握るのに優位に働くと考えたからである。
当時、室町幕府とは一定の緊張関係にあった鎌倉公方は零落して古河に逃れていたが、それでも古河公方と呼ばれて象徴的な権力を持っていた。したがって、関東では新参者の後北条氏は、氏康のもう一人の妹を古河公方・足利晴氏に嫁がせて姻戚となっている。この当時、関東でもっとも力を持っていたのは上杉氏である。世には関東管領と称せられていた。上杉氏は藤原氏北家に連なる中級公家であったが、丹波国上杉庄を得て上杉氏を名乗り、宗尊親王に随行して鎌倉に下ってきたのが歴史舞台への登場の始まりである。足利尊氏の生母が上杉氏の出であることから室町幕府創設に功があり、鎌倉公方の執事(管領)職を世襲するようになる。この上杉氏には四家があり、それぞれの邸宅のある鎌倉の地名をつけて山内、扇谷、犬掛、宅間に別れたが、長く山内上杉家(家宰は長尾氏)が勢力を得ていた。だが、山吹伝説で有名な家宰太田道灌が現れることによって扇谷上杉氏が台頭した。太田氏は清和源氏の流れをくみ、丹波国太田に住んで太田氏を名乗ったといわれている。古河公方足利成氏対策として川越城を築いたのは太田道真・道灌親子である(1457年)。
大田道灌の力量を懼れた扇谷上杉家当主定正は太田道灌を謀殺する(1486年)ことで国人層が離れ苦境に陥っていった。その頃である。両上杉氏の争いに乗じて後北条氏が関東進出を始めたのは。その両上杉氏も争いを収めて、新たな脅威となった後北条氏へ一致して対抗する挙にでた。これに古河公方も加わり、奪われた川越城を奪還する扇谷上杉朝定(松山城に逃れていた)に組みして、上州平井城から発した山内上杉憲政とともに8万5千人の兵で、北条綱成に率いられた3千人の兵が籠もる川越城を取り囲んだ。
戦場となった川越は入間川(現荒川)岸に開かれた町である。平安時代に平氏良文流の秩父氏が拠点である秩父牧から入間川に沿って領土を広げ畠山、川越、江戸氏などを名乗った。その流れの一人重頼が川越館(川越市上戸)を入間川西岸に築き河越氏を名乗るにいたる。秩父氏は武蔵国を代表する一族であり、その一族の畠山氏や河越氏は鎌倉時代に武蔵国留守所総検校職を得ている。その後、鎌倉公方足利氏満に対して起した武蔵平一揆(1368年)によって没落する。再び川越が注目されるのは太田道灌らによる川越城築城によってである。
海道龍一朗は川越夜合戦の様子を次のように描いている。「氏康から関東管領の山内上杉憲政に最後の使者が出された翌日、天文15年(1546)4月20日の夜は、月明かりさえ定かではない絹曇りだった。・・・丑の刻になって辺りが静まり返った頃、夜目に明かな白布の合印を襷掛けにした北條勢が、夜陰に紛れて山内上杉憲政の陣の背後に忍び寄り、息を殺していた。」「最初に打って出た三軍は、慌てふためく上州勢を蹴散らし、思いのままの戦果を上げている。逃げ惑う六万五千をたった六千余の北條勢が薙ぎ倒し、扇ヶ谷上杉朝定をはじめとして小野播州、倉賀野三河守、本間江州、難波田弾正などを含めて三千余りの将兵を討ち取っている。上州勢は甚大な被害を出し、関東管領の山内上杉憲政は、混乱の坩堝の中から命からがら平井城に向けて遁走していた。恐るべき焔虎の一団に襲われた古河公方は、なす術もなく下総に向けて敗走した。」
「半年にも及ぶ勝利目前の戦いがたった一夜で無に帰した上杉連合軍には、惨憺たる結果が待ち受けていた。大将の朝定を討ち取られた扇谷上杉家は、この合戦で事実上壊滅し、古河公方と関東管領の権威は地に墜ちた。最大の危機を最大の勝利で乗り切った川越城の一戦は、関八州全土を震撼させただけでなく、京の都に氏康と綱成の武名を轟かせた。」
「北條龍虎伝」は得意の絶頂で物語を閉じている。諸説は分かれるが、1545年(天文15)4月20日に川越夜合戦はなかったとも言われている。しかし、川越城をめぐる攻防が続いていたことも確かであり、また関東を制圧するのに重要な地域であることも確かであろう。後北条氏は、もちろんその後も領土拡大に走り、長尾景虎改め上杉謙信や武田信玄との戦いも含んで、ほぼ利根川を挟んで関東平野を領有したところで、時代は天下が定まった。ここから、後北条氏五代の暗転がはじまる。天下を狙わぬ後北条であったが、時代を見誤ったともいえる。あるいは海道龍一朗が氏綱に語らせた戒めの言葉を使えば、後北条の徳とはローカルエリアのものであって、責め滅ぼした豊臣秀吉や江戸に幕府を開いた徳川家康のような全国規模の徳ではなかったともいえる。だが、徳とは為政者のための言葉なのであろうか。(2009/1/2)