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書名 関東郡代御用留
著者 祖父江一郎
初出 2001年 集英社
「関東郡代御用留」は大河内与七郎が主人公として設定されている。五代伊奈半十郎忠常の物語上での付け家老大河内与兵衛の嫡男とされている。彼はまた、剣術では願流という流派の使い手でもある。
徳川幕府は天領(徳川氏私領地)を多く持ち、そこに有能な民政家を代官として送り込んだ。世襲でいえば、関東郡代を勤めた伊奈氏や伊豆を支配した江川太郎左衛門。一代での登用であれば、今太閤と呼ばれた川路聖謨や御庭番出身の川村修就が有名である。人材は勘定方から輩出した。関東郡代が勘定奉行下から老中の直接支配に移ったのは八代忠逵の時であり、忠常の時代はまだ勘定奉行の支配下にあった。伊奈氏は民生において秀でた一族であり、はじめ小室(伊奈町小室)に、後には赤山(川口市赤山)に陣屋を設けて、200年間も代官頭あるいは関東郡代として関東に君臨した。物語では家康によって初代忠次に3ヶ条のご朱印状が交付されていることになっている。これは「東照宮御実紀」に基づいて描かれたものとおもわれる。その一つは「代官頭は関東をわがものと思い依怙贔屓なく治めるべし」とあり、また三代将軍家光の「伊奈半十郎忠治ならびに子孫末代に付託するものなり」の添え書きがつけられている。この添え書きは大名家であった伊奈忠次本家が老中酒井忠世の陰謀によって一旦断絶させられたのを、勘定方にいた忠次次男忠治を持って関東郡代として関東の支配を復興させた折につけられた。忠世の陰謀を暴いたのが大河内与兵衛である、と設定されている。その折の調べが「代官頭御用留第七巻」である。徳川氏の私領を基に関東において強大な実効支配をおこなっていた伊奈氏と公的な機関である徳川幕閣とは常に緊張関係にあった。史実でも、七代忠順は1707年の宝暦の大噴火では独断で米蔵を開き、駿東郡足柄、御厨の飢民に分配し救済した。幕府は忠順を罷免、切腹させている。一方、遺徳を偲んだ農民は伊奈神社(静岡県駿東郡小山町須走)を建立して忠順を祀っている。十二代忠尊は天明の大飢饉の折に、独力で米を買い集め江戸町民に配布したが、後に幕府によって伊奈氏は改易処分にあっている。これによって関東郡代は事実上廃止されてしまった。
初代伊奈忠次は、三河国幡豆郡小島城主(愛知県西尾市小島町)の伊奈忠家の嫡男。一時禄を離れるが、家康の伊賀越に助力して帰参し、その後はもっぱら民生を主な舞台とした。関東代官頭として関東平野での新田開発、利根川・荒川の付け替えなど江戸幕府の基盤づくりに貢献した。各地に残る備前堀、備前堤などの備前は、忠次の官職名・備前守に由来している。三代忠治になって関東郡代という役職名となり、荒川の治水では元和年間に吉見領囲堤(1615年〜1624年 現埼玉県比企郡吉見町)を、また鬼怒川と小貝川の分流工事など利根川東遷事業の多くを手がけた。筑波郡谷和原村福岡(つくばみらい市)にある伊奈神社は忠治を祀ったものである。四代忠克は、玉川兄弟とともに玉川上水の施工に水道奉行としてかかわっている。五代忠常の事績として上げられるのは千住大橋の架け替えなどである。1680年に32歳で亡くなっている江戸初期の関東郡代である。伊奈忠治の時代は、下馬将軍といわれた酒井雅楽頭忠清の時代でもある。大老忠清は忠世の孫でもある。
伊奈家に守られた天領(4公6民)の民と旗本領(6公4民)の民の悲惨さの相違から小説は始まっている。武蔵国は天領と譜代大名領、そして旗本領が混在する。鳥谷村の地頭、紅林左馬之助は小前百姓に種籾を貸付、高利の利息をとる収奪を4年前から始めた。新堀川は通称白骨川と呼ばれていた。それは育てて行けぬ鳥谷村の村人が生れた赤子を川に流すためであった。流れ着いた川原に小骨が集まることから名付けられた、とされる。このような悲惨な様子に心を痛め、「仏の与七様」といわれていた与七郎は二つの政策を考えていた。一つは旗本から知行地を召し上げて御料地に組み入れることである。旗本は蔵米の支給とする。もう一つは桑の栽培、蚕の育成など換金作物の殖産である。これを鷹狩りに訪れた四代将軍家綱に伊奈忠常、大河内与兵衛、与七郎とで建策したのである。「左様せい様」という異名が付けられていた家綱ではあるが、酒井雅楽頭と別の政策を採ることを決断する。酒井雅楽頭に取り入り役付になろうとして猟官運動をするために、旗本紅林左馬之助が鳥谷村への収奪を極めていたことが次第に明らかになる。与七郎の指示で鳥谷村の農民は紅林家への門訴を行う行動にでる。この過程で、紅林家に養子に入った左馬之助が軟禁され、実は隠居した清作衛門が実権を握っていることが明らかにされていく。酒井雅楽頭・旗本紅林家との対立とともに、物語では伊達騒動が加わり膨らみを持つようになっている。
大河内家は徳川時代には長沢松平系として本家は旗本であるが、分家の三家が大名家となっている。代表的な人物は知恵伊豆と呼ばれた武蔵国忍藩主の松平伊豆守信綱である。物語では、与七郎は大河内与兵衛の実子ではなく、信綱の子である、と記されている。松井松平家の家老職石川善太夫昌隆の著「石川正西見聞集」によると、伊奈忠次の家老に大河内金兵衛秀綱がいたが、その子が「松平伊豆守信綱にて御座候」と記されている(「増補新版 関東郡代 伊奈氏の系譜」 本間清利著 埼玉新聞社 )。これに拠ったものなのであろうか。
与七郎は酒井雅楽頭の屋敷を訪れ、自らが記した「関東郡代御用留第1巻」を差し出した。鳥谷村の一件である。既に正本は将軍家綱に渡っている。これを突きつけながら先に将軍に建策した二つの案の実行を迫った。こうして旗本の知行地のうち問題があるところは知行地を召し上げ、蔵米取りに切り換えるとともに、「関東郡代は代官頭の御役御免」、勘定頭が代官の直接支配をすることを将軍家綱が大老酒井雅楽頭に指示して物語は結着した。
伊奈家・付け家老大河内家が起した騒動に対して、与七郎を助力してくれた元老中阿部忠秋は「百姓を御主君と仰げということは、関東総奉行本多佐渡守正信様以来、連綿として受け継がれてきた代官の大本の精神でもある。・・・与七郎は知恵伊豆が年老いてもうけたお子でありながら、お手元には置かずに与兵衛に与えたのは、行く行くは天下万民の付託に応えさせようとお考えになられたからだ。与七郎が屑でなくて何よりじゃった。知恵伊豆も泉下でほっとしていることであろう。」と語る。これを与七郎は亡き父・松平伊豆守信綱の遺言を伝え聞くように、耳を傾けたのである。阿部忠秋は、かつて由比小雪らが起した慶安事件後の処理では浪人の江戸追放策に反対して、就業促進策を進めて社会の混乱を鎮めた人物であった。また、捨て子を何十人も拾ってきて養い、男子は自分の家来にし、女子はそれぞれ嫁がせた、というエピソードの持ち主でもある。物語には与三郎が、捨てられ、流された赤子を拾ってくる設定があるが、これはこのエピソードからヒントを得ているのかもしれない。(2009/1/14)