楽書快評
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0177

書名 越境の古代史
著者 田中史生
初出 20092月 ちくま新書

埼玉県に新座市がある。758年 天平宝字2 武蔵国に新羅郡が建郡されたことに由来する。後「新羅郡」は「新座郡」に改称された。だが、この地に移された新羅からの「帰化人」について知ることはなかった。

「越境の古代史」にその一端が描かれている。新羅は740年代後半から750年代後半まで天地異変による飢餓・疫病に苦しめられていた。755年には飢餓のなか自分の股肉を切と取り父親に食べさせた男の話が王の耳に入った、と「三国史記」新羅本紀にあるという。「本国の惨状から逃れて渡来した人々であった。したがって、九州へ流入する新羅人の急増も740年代後半から始まったはずである。758年(天平宝字2)八月、僧3人、尼2人を含む74人の『帰化』の新羅人が武蔵国へ移配された(『続紀』)」と田中史生は書いている。さらに、この流入する新羅人を武蔵国へ移す目的も描かれている。それまで日本政府は大量に流入する新羅人に「帰化人」として取り扱うことをできずに、北部九州に止め置いた。帰化人として取り扱うことは口分田の準備など生活の保障をできる環境を整えた受け入れ先を用意しなくてはならなかった、からだ。ところが、「天平宝字期に入って急遽その対応に本腰を入れたらしい。そして実はこの天平宝字の時代、日本はいわゆる藤原仲麻呂政権下で、新羅への侵攻を計画していた。」「兵站基地となる九州の大量の新羅人をそこから遠ざける必要が生じたためとみられる。しかし、日本が新羅『征討』とかかわり流入新羅人を警戒したということは、亡命者とされる彼らのなかに、渡来後も新羅本国とのつながりを維持するものがあったことを示唆している。」深い時代背景が一気に浮かび上がる。この新羅人の日本での活動は東アジア地域全般に渉る新たなネットワークの始まりでもあった。このネットワークに乗って日本からの留学僧や遣唐使が渡っていった。

この新たなネットワーク以前が本書の前半部分である。日本がまだ日本と名乗らず倭と呼ばれ、あるいは称していた時代、交流は邪馬台国、あるいは大和王権のみの独占物ではなかった。北九州にとって朝鮮半島の加耶南部地域は弥生期以来鉄の供給地であった。魏志倭人伝で示された対馬にいたる起点である狗邪韓国ともそこは重なる。5世紀の倭の五王時代になるとこの朝鮮南部からの渡来人は鉄生産技術や須恵器など技術革新ももたらす。高句麗が力をつけ、新羅がこれに結びつくと、これに対抗した百済と加耶地域との軍事ラインに倭も引き込まれた。それは加耶南部の鉄に倭が依存していたためであると田中史生は解いてきる。この外交政策は倭の大王が統括した。それは百済・加耶への軍事的な支援を組織できる唯一の勢力であったからである。倭が送ったものは傭兵、軍船、武器、馬、麦種、稲種、そして糸、綿、布などである。倭にもたらされた技術革新の成果が、東アジアへとまた還流していく。

ところが、大王家と外戚関係にあり有力氏族の葛城襲津彦は新羅攻撃に赴いたにもかかわらず加羅国(加耶北部の大加耶=慶尚北道高霊)を討ってしまう事態も生じる。また、雄略大王に派遣された吉備上道臣田狭は任那(狗邪韓国の後身である加耶南部金官国)で新羅と通じて反乱を起こす。これは「加耶南部を介し新羅との関係を深めつつ、大加耶と対立した葛城の首長と、百済に加え急成長の大加耶との関係も視野に含む済王の即位当初からの激烈な対立を生んでいたと考えられる。」と背景を説明している。済王=允恭大王であるといわれている。葛城襲津彦の子あるいは孫とされる玉田宿禰(允恭大王に前大王の葬送儀礼をめぐって攻め滅ぼされている)の娘婿が、吉備上道臣田狭である可能性が高いと論じている。しかも雄略大王はこの吉備上道臣田狭の妻を奪うために彼を任那に派遣したという「記紀」の記述さえある。朝鮮半島の抗争があるように、倭の大王家の継承も対立を含んでいる。大王家の有力氏族も、それぞれの思惑によって、独自のネットワークを築いていた。

倭の朝鮮戦略を支えてきたのは九州南部勢力である。しかし、6世紀前半、百済と新羅とが結び、敵対関係になったのが大加耶という新たな朝鮮情勢になると、九州を代表す筑紫国造磐井が、任那に向かう6万人の大王軍に対して海路を断つという挙に出た。

「列島各地の首長層にとって、自らの共同体の存亡とかかわり選択すべき対外関係は、列島を含む東アジア全域に広がっていた。倭臣と呼びうる首長でさえ、百済、新羅、加耶と倭王との関係をいつも天秤にかけたのである。」

次は文化の根本、文字に関することである。倭の五王が宋国に送った上表文作成者の漢字表現の分析から、次のことが分かるという。4世紀初頭、晋の時代、王朝が非漢族に華南に追われたとき、華北や楽浪郡・帯方郡で活躍していた漢族が高句麗や百済に流入し、朝鮮各王朝の政治・外交に関与した。5世紀になって百済から、その系譜に属する漢族の人々が倭王に贈られて列島に渡来、上表文の作成者として対中国外交に参加したというのだ。

漢字の話は続く。6世紀に渡来した王辰爾(じんに)は漢字を日本にもたらした人物といわれている。彼も中国系百済人である。「記紀」によると553年欽明大王が樟勾宮(くすのまがりのみや)において蘇我稲目に命じて「船賦(ふなのみつき)」を数えさせた、とある。この前年、新羅に圧迫された百済が倭王欽明に援軍を要請している。樟勾宮は淀川の川津(枚方市楠葉)にあった。船材であるクスと川の屈曲を意味する勾がついたところを見ると軍事物資の集積地でもあり、「文字技術者の王辰爾は、これら淀川水系を利用し周辺首長が貢納する物資を、宮近くの津で計算・記録したのだろう。」と分析している。さらに、「かれは、倭の軍事援助を引き出し、またそれを最新の知識・技能で支えるために百済から渡来した、諸博士たちの役割に似る。」その後も百済の戦略的意図を代弁して「駐在官」の役割を担ったとみなす。高句麗からの「烏羽の表」への倭の対応にもそれを見るという。王辰爾は「船史(ふねのふびと)」の姓を与えられて子孫は文筆業務を専門とするフミヒトとなった。

 百済が唐と新羅の連合軍に滅ぼされて、しばらくすると唐と新羅との関係も険悪となり、倭は新羅との関係強化を選んだ。そして新羅人の中国・韓国・日本をまたいでの東アジアネットワークの時代が訪れる。そのネットワークによって生じた1つの影響が武蔵国にも現れたのは最初に見た新羅郡の立郡である。建郡は蝦夷征討とともに新羅征討を政策に掲げた藤原仲麻呂政権の意図である。その意を受けて、武蔵国に積極的に誘致したのは、仲麻呂の軍事的な片腕として活躍していた高麗福信である。彼は、広開土王の後裔を名乗り、660年に唐によって高句麗の平壌城が落とされた時に渡来した王族の末裔である。武蔵国に根を張る高麗氏一族である彼は、中衛少将であるとともに、756年から武蔵国司を兼ねていた。高句麗系の高級軍事官僚のお膝元で、新羅系帰化人を監視するという意味合いもあったのではないか。なお、高麗福信は後の仲麻呂の乱には、孝謙天皇側につき、ついには従三位にまで上り詰めている。武蔵国のこの時代の動きについては武芝伝説4−2を参照して欲しい。

田中史生は古代人の越境的なネットワークを「どこの国の歴史にも専属せず、それでいて様々な国の歴史の影響をまともに受ける。しかもネットワークは、ある地域の社会変動をすぐさま別の地域へと運び、各地の歴史へと導く。私たちがこのダイナミックな“つながり”に目を向けるとき、あらゆる歴史が“私たち”の前に開かれるはずだと思うのである」と記している。古代の幾重にも思惑が重なり合ったネットワークで物資・文化を運ぶ運び手・受け手のありさまが描かれていて魅力的な歴史書である。(2009/2/23