書名 清涼
著者 富田常雄
初出 1956年 オール読物2月号(「雲流るる城下町」所収 1977年 講談社文庫)
明智光春が、叔父にあたる光秀とともに、歩き始めたのは、斉藤龍興によって道三方に付いた明智城が落とされたときである、と小説は始まる。そのとき20歳。組織の中での生き方をどのように身につけていくかがテーマである。特に有能なリーダーに率いられた場合の対処が「清涼」に描かれている。
光秀に傾倒した光春の様子を「豪傑肌の光春の性格の中に、光秀の持っている一種の衒いが次第に沁みこみ、後には生きる上で、絶えず、自己の姿勢を気にするようになった。」と述べている。この自己の姿勢への気配りは別の言い方では「同時にそれは第三者に、巧まずして舞台効果を与えるという点への心配りでもあった。」とも記されている。
それは例えば、細川藤孝が光秀の館を訪れた折に、普段はしない障子越しに目通りの作法をわざわざして通り過ぎるまねをしてみせることである。その心を質されて「細川殿はやがて世に謳われるべき御仁と承れりますれば、殿の小姓は廊下を通っても、かくすると申さば、あるいは殿のなにかのお役にもと」と答えるのであった。それは巧まずではなく、企んで、であろう。
あるいはまた、羽柴秀吉が光秀の城を訪れた折には、自慢の光春を目通りさせようとしたが、あえて病気と偽って一人馬場で責め馬を行っていた。光秀に問われて「某は当家の他に主取り仕るべくとは存知申さぬ故、他の大名に顔を見知られても、一向に益はこれなく、それゆえ目通りを仕りませなんだ。責め馬の方が大事と心得てござりまする」と答えている。こうして光春は光秀の信頼を得て第一の側近となっていったのである。
俗説として有名な波多野経尚の投降のために光秀が自分の母を質として出したにもかかわらず、信長は降将を斬ってしまった為に礫刑にされた話がある。富田常雄は、この母を光春の母として描き、信長の狭量と苛酷とを光春が思い知ったと書いている。
こうして本能寺の変に至る。信長の首を得た光春はだが光秀にはそれを渡さなかった。それは「甲斐の武田を討ったみぎり、殿は勝頼の首に向かって罵詈雑言を浴びせ、・・・果たして、今に至って世の人の顰蹙を買い、誹謗の的となっておる。」「今、この首級を殿のお目にかけたらんには、重なる怨恨、一時に発して、必らず、この首を凌辱されるであろう。さすれば、後世に大いなる誹を残すは必定じゃ。」という考えからであった。武士はむき出しの暴力装置である。当時として高い教養を持った武将である光秀が、敵将の首を陵辱する、その気持ちの幅こそに人間の魅力があり、また戦いを切り開いていくに必要な情念があると思う。
光秀は信長の死を実感できないことから心の動揺が始まる。外聞を気にするあまり、絶対的なリーダーである光秀の動揺を光春は考え及ぶことができなかったのである。山崎の一戦は、秀吉の勝利に終り、光秀は逃れる途中、小栗栖であい果てた。
後方支援に当たっていた光春は近江の粟津で味方の三百騎を解散させ、一騎湖上を渉って坂本城に帰る。使った大鹿毛の馬に「明智佐馬助湖水を渡せし馬也」の木札を結んで放った。後三年の役に清原家衡が自慢の馬を敵に渡したくなくて射殺した故事の逆を行ったのである。秀吉はこの馬を後に賤ヶ嶽の合戦に使ったと富田常雄と書いている。また坂本城にある茶器などの名器を城から出させた。これも松永久秀が志貴城に没した折に、「平蜘蛛」の茶釜を砕いて信長に渡さなかった逆をいったのである。
こうして明智光春は光秀の娘である妻とともに自害して果てたが、辞世の句の代わりに、「清涼」としたためた、と描かれている。この「清涼」と書かれた紙を見た秀吉に「心の涼しさ、天晴れな侍よ」「日向守の恩に報いがため、大逆にくみせしこそ不憫の至りながら、かくまでに、日向守は侍を養うには巧みであった。」との感慨を語らしている。そして富田常雄は「その言葉は当を得ていた」としている。
「清涼」と記す光春の心をそのままに心の涼しさとしてみることは、富田常雄の描いた限りでは難しい。清涼というスタイルにとらわれた武将といえるのではないか。あるいは明智光秀という優秀なリーダーに率いられた成り上がり軍団への帰依のあり方と見ることもできる。内からこみ上げてくる振る舞いではなく、光秀によって鋳型にはめられた姿と見ることもできる。それは「日向守は侍を養うには巧み」であったに過ぎない。「姿三四郎」(1942年)によって流行作家となった富田常雄は、半ば光春の「清涼」を肯定して描いているために、こじんまりとまとまった小説となってしまった。(2009/5/8)