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書名 周縁から見た中世日本
著者 大石直正、高良倉吉、高橋公明
初出 2001年 講談社
中世を武士の世とする考えを覆すように中世での王権の問題が強調される論調には異議を感じてきた。王権すなわち京都を中心とする権力構造を第一義に、歴史を通底する絶対的な要素だとみなすことは、意図的な歴史観である。周縁論には中心が前提としてある。この中心を相対化してみせるのが、論点として重要である。その場合、経済的な問題とあわせて、政治的な周縁/中心の論述が重要である。日本の歴史14「周縁から見た中世日本」は、前回取り上げた「海から見た戦国日本」(著者 村井章介 初出 1997年 ちくま新書)の関連で取り上げる。
中世日本においての周縁の意義を「はじめに」で総括的に述べている。日本列島の動きは東アジア規模での変動の一環であり、中国周辺諸民族の勃興と征服と江南地方での開発・交通・商業の発達がみられ、「これに連動した農業以外の生産物の交易につよく関わっており、それを活動の基盤とし」た特徴を持っている。中世は国家の絆が弱い時代であるが、列島東北部、西南諸島、海域の各方面での「京都などを中心とする観念の相対化を試みてみたい」と気概を述べている。
観念の相対化のためには、交易、すなわち経済的な越境の問題と共に一国規模を超える政治体制への周縁論が必要である。「内国の歴史とは異なった、もう一つの歴史の存在を明かにすることになる。」とも述べている。東アジアという地域を設定して、中華に大きな中心を見いだし、京都を中心とする内国=王権を相対化する試みは、鎌倉得宗支配から室町まで、あるいはその後の戦国時代まで、テーマを設定しやすい時代ということであろう。
第1部は、奥州藤原氏から松前藩の成立まで、十三湊の繁栄やエゾ反乱が北方での蒙古来襲から明の北方支配までの中国を中心とした交易の支配の強弱に連動しながら北方周縁の歴史が作られていったことを明かにしている。鎌倉時代、得宗身内人である安藤氏一族の亀裂が鎌倉幕府崩壊の一要因とされている。だが、北方交易を基にした分析を行うことで、国内政治は周縁の歴史の逆に一要因になっていく。「このサハリン・アイヌの元との戦いは、北奥におけるエゾの反乱とまったく同じときにおこっている。アイヌは北に進出してギリヤーク・元と戦い、同じときに、南では鎌倉幕府=北条氏の軍隊と戦っていたのである。北方の戦いの原因にはギリヤークとの間の鷹の争奪があった。南でも、交易の統括にともなう争いが、乱の原因であった。そしてその背景には、共通して交易の民としての性格を強めつつあったアイヌ社会、アイヌ文化の形成があった。アイヌ文化の形成を基点とする動きが、北方の世界を動乱のなかに巻き込んでいたのである。それは、西の海での倭寇の活動や、日本国内における悪党や海賊の蜂起とも通じるところのある、大きな社会変動の一角をなすものだった。p76」だが、北方周縁での自立的な交易は、徳川幕府―松前藩による官制貿易に押込められていく。北方が江戸を中心とする日本政府の周縁となったのである。政治経済と通した周縁の課題が浮き彫りにされている。
第2部では、琉球を中心とするアジアとの交流が描かれている。すでに琉球の最盛期が、明の海禁政策に応じた形での東アジア、東南アジアとの交易によった一瞬のことであることを「海から見た戦国日本」によって知っている。このことを「明帝国の登場によって環東シナ海世界に新たな国際秩序が出現したが、その舞台に参加するためには、中国との関係を構築できる主体が必要とされた。琉球王国の形成という動向は、公的存在としてのその主体を琉球地域において樹立する営為だった。樹立されたその主体=琉球王国は、中国皇帝を頂点とする環東シナ海の国際秩序に適応できる存在でなければならなかった。この意味において、琉球王国は、東アジアの新しい環境が生み出した国家であったともいえる。p205」と書かれている。明が衰えれば、この独占的な交易による利得もなくなり、琉球に建国した国家も衰えるのは必定である。冊封体制下での朝貢貿易は、中国人による密貿易が盛んになり1567年に明が海禁政策を放棄し、台頭した満州族への対応に追われるようになると、独占的な交易が不可能となった。さらに、日本では国内の統一が進み豊臣秀吉の中国侵略構想の一環としての朝鮮半島への出兵がおこなわれ、そして島津氏による琉球制圧が行われた。このような明あっての琉球の国家としての統一と破綻を見るにつけ、中国皇帝を頂点とする環東シナ海の国際秩序が崩壊する時代への適応があってこその、周縁論議ではないのかとの思いが募る。独自の地域世界の影響を、琉球=沖縄の明日を指し示しめすためには、琉球統一という内向きの論述のみではなく、東アジアへの経済的な発展と政治体制を覆るにいたる政治的な視点の作業が大切である。
第3部は海域世界の交流と境界人と題して対馬・朝鮮半島南部の交流を描いている。対馬の「宗氏はたしかに室町将軍から任命された守護を権力の源泉としていたが、対馬島においては、それで十分ではなかった。海を活動の場とする人々を統制するには、海の交通をめぐる権益あるいは管理権は権力の確立に不可欠であった。朝鮮はその源泉を対馬島、とくに島主に与えたのである。朝鮮政府も室町幕府も、まぎれもなく陸地の権力である。しかしながら、対馬島の人々の海に関わる活動に一定の秩序をもたらす政治経済的な枠組みを与えることができたのは朝鮮政府だけであった。p285」朝鮮政府が国家の秩序のもとに交易を行うには、まず倭寇対策であり、そのために島主宗氏を優遇したのである。対馬のみならず、壱岐、五島列島、博多まで、あるいは遠く南九州までも交易圏は広がりを見せていた。その中で、遼東半島を拠点にした交易が満州女真族によって行われていたが描かれている。さて、倭寇の話である。高麗史などを史料から対馬、壱岐、五島を基盤とする倭寇は最盛期には三百〜五百の船団、千数百の騎馬隊、数千の歩卒を擁し、1380年に朝鮮半島南部に出没している。だが、1510年におきた三浦の乱をへて海域社会の独自性は失われていった。暴力を伴った交易活動の活発な様子が描かれている。それに比べ、対馬島の島主の政治性は、北方アイヌのようなたくましさでもなく、また琉球のような地域国家の建国への渇望でもなく、日本の室町幕府と朝鮮王朝とのぬえ的な狡知さが目立つだけである。それをしたたかさとして押し出すこともできる。だがそれは周縁を周縁として止める発想であり、次の歴史を動かす梃子としてあるものではない。
東アジア世界の中で列島を掌握した豊臣秀吉は明に替わる大帝国を築こうとした。「周縁から見た日本」の文末は「海賊禁止令に見られるように、豊臣秀吉は積極的に海に関わる人々を支配下に置こうとした。その動きは、境界人を含んで権力をつくっていた対馬島主にもおよび、結果的に、対馬島の人々は朝鮮侵略の先兵の役割を務めることになった。一方の朝鮮は情報源を対馬島に限定され、日本列島に巨大な権力が形成されていることを十分には認識していなかった。文禄・慶長の役はこのような状況で実行された。前近代において、日本列島上の公権力が海域世界まで組織して行った最大規模の軍事活動であった。」と結ばれている。
このように「周縁から見た中世日本」は経済的な側面では周縁部分の再評価を促すものである。周縁の人々の活発な交易活動も描いている。周縁が中心を凌駕し中心・周縁の区分を越える経済的な勢いは感じられる。残念ながら周縁が中心の政治的な転換を得るような枠組みは提示されていない。観念的な相対化、そして政治的に周縁が中心の国家体制を覆していくような側面に論を進めることが周縁論にとって必要なことではないのか。(2009年10月29日)