楽書快評
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0188
書名 遊山西村
著者 陸游
初出 1167年(乾道3年)岩波中国詩人選集二集8 一海和義注1962年
「柳暗花明又一村」という表現が好ましい。
 陸游は今から800年前に生れている。南宋の官僚=政治家にして、憂国詩人である。陸游が生れた翌年に金によって北宋は都を落とされた。その後、南に逃れて再建された。それを南宋という。南宋は、和親路線を基本としていたが、陸游は主戦派として人生を過ごした。その滅び行く国を憂える心根に「柳暗花明(りゅうあんかめい)又た一村(いっそん)」の風景があるのである。陸游43歳のときの詩である。資本主義的なナショナリズムが成り立つはるか以前、郷土へのいとおしみと国への思いとが不可分に結びついた実感的な憂えである。もちろん、金を起こした女真族からみれば、別の憂国があり、陸游の農耕を主とする漢民族の心もちとは違った心象風景があるのだと思う。国を憂えるというのは、絶対化してはならない。ただ必要なのは、膝を屈することのない心の在り方である。アメリカ合衆国と和親路線をとりながら、愛国を掲げる人々の姿を今の日本列島に見るにつけ、「柳暗花明又一村」の詩句が思い出される。
遊山西村      山西(さんせい)の村に遊ぶ
莫笑農家臘酒渾   笑う莫(な)れ 農家の臘酒(ろうしゅ) 渾(にご)れるを
豊年留客足?豚   豊年 客を留めるに ?豚(けいとん) 足れり
山重水複疑無路   山重水複(さんちょうすいふく) 路(みち)無きかと疑う
柳暗花明又一村   柳暗花明(りゅうあんかめい) 又た一村(いっそん)
簫鼓追随春社近   簫鼓(しょうこ) 追随(ついずい)して 春社(はるしゃ)近く
衣冠簡朴古風存   衣冠(いかん)簡朴(かんぼく)にして 古風存(そん)す
従今若許闖謖氏@  今より若(も)し閨iしずか)に月に乗ずるを許さば
突杖無時夜叩門   杖を突いて 時無(ときな)く 夜門を叩かん
 農家には師走に仕込んだどぶろく酒があり、豊年だったので客を引き止めるにたる鶏や豚の肉料理がたっぷりとある、ともてなしの招きを陸游は受けた。山が重なり、川筋も曲がりくねった道を行き、もう行き止まりかと思う。その時、柳の暗く茂る中を桃の花が咲くのが明るく見えた。その先にひとつの道が続いていた。笛や鼓の音が春の祭りが近いことをうかがわせる。村人の服装は簡素で旧い作風を残している。暇に任せて何時でも来いというならば、杖をつきながら夜半にでも訪れることにしましょう、と陸游は応える。いわば掛け合いの詩である。そこは陸游にとって桃源郷である。前年、陸游は主戦派の将軍張浚(ちょうしゅん)を支持し、ために職を解かれて故郷に帰っていた。陸游が農家の招きに応じて歌った詩には、屈託を払いのける「花明」がある。
 宇野直人は「陸游の家は、4代前から官僚を出した地主の家庭であった。曽祖父の陸珪、祖父の陸佃、父の陸宰はみな学者として一家を成し、とりわけ陸宰は蔵書家として知られた。南宋成立直後、宰は蔵書一万三千巻の写本を2年がかりで完成し、朝廷に献上している。また、母方の親戚には蘇門四学士の一人、晁補之がおり、祖父の佃は王安石の門下であった。」(「漢詩を読む 漢詩の来た道宋代前期」NHKラジオテキスト)と家風を論じている。陸宰は抗金の義勇軍を指揮したこともあるという。
 そしてこの詩を「隠棲中の或る一日、村人から招待され、心のこもったもてなしを受けた喜びを詠じている」と解説している。その通りである。「柳暗花明又一村」それはまた国を憂える政治世界に通じる心の風景でもあっただろう。宮廷政治では受け入れがたい心の在り方ではあったが。29歳で科挙試験の一次試験に首席で及第するが、次の中央での本試験では、和親派の宰相秦檜によって名指しで落第させられている。代わって首席で通ったのは秦檜の孫である。秦檜が病没して始めて官途につくが、その後も主戦論のために4度の処分を受けている。路無きかと疑い、それでもその先の暗がりに「花明」を捜し求めた85歳の生涯であった。
(2010年4月19日)