楽書快評
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書名 地球時代の民族=文化理論
著者 西川長夫
初出 1995年 新曜社
 ルソーの次のような言葉を西川長夫は引用している。「政府と法が集団としての人間の安全、幸福とに必要なものを与えているのに対して、学問、文学、芸術は、それほど専制的ではないが、おそらくはるかに強力なものであり、人間がつながれている鉄鎖を花飾りでおおい、人間がそのために生まれてきたと思われる根源的な自由の感情を抑圧し、奴隷状態を人間に好ませ、いわゆる洗練された国民なるものをつくりあげている。」学問、文学、芸術などの文明、文化の領域は国民として人々を縛る鉄鎖の花飾りであるというのだ。鉄鎖の花飾り、とはうならせる言葉である。
 もう一人、I・ウォーラステインも引用している「国家間システムの制約内での国家の創出は、直接的(あるいは長期的)な経済的戦略的考慮に基づく国境線の設定と頻繁な再設定を意味した。・・・いったん創出されると、国境を明確に定めた各国家を国民国家に、すなわち、文化的に同質的で、文化的に排他的な国家に変容させてゆく圧力があらわれてきた。ある地点で国家機構をコントロールしている者たちの立場からは、国家と同じ広がりをもつ『国民社会』の創出はあるはっきりとした利点をもつ。すなわち、他の者からの分離や拡大のいずれかに対して領土的主張を擁護できること、国家政策に民衆的エネルギーを動員できること、被抑圧階層の批判を逸らし、しばしば彼らの組織能力を削減できること、これらはすべてよく知られている。」そしてこうもウォーラステインはいう「伝統とはつねに現代の社会的な創造物なのである。」おみごと。
 副題に、脱「国民文化」のために、とあるように文明、文化という言葉が近代国民国家の設立と時を同じくして中心的概念として使われ始めたことに注目した論考である。用語のイデオロギー性を厳しく追求している。
「文明も文化も18世紀後半にフランス語から全ヨーロッパにひろがった新語である。文明(civilisation)は、civiserという動詞から作られたまったくの新語(初出は1957)であり、文化(culture)は中世から存在していたが、主として農耕にかかわる意味で使われており、現在のような意味に転換したのはやはり18世紀後半である。これらの語は、18世紀から19世紀にかけてヨーロッパにおける一連の国民国家形成の運動のなかで新たな国家の担い手となる新興市民階級の(そして後には新興国家の)価値観を表すものとして形成され広められる。そのさい、普遍と進歩を中核とした『文明』は、フランスやイギリスのような先発国へ、個別と伝統を中核にした『文化』の概念は、ドイツ、ポーランド、ロシアといった後発国へ広がってゆく。後発国が先発国に対する自己主張と自己防衛の必要から、自民族に固有な価値を強調する『文化』概念を受け入れ育成したことは、例えば現代における後発国のナショナリズムと文化の結びつきを考えれば納得できるであろう。」P209.210
 このように使う用語の概念によって分類、整理した場合に日本ではどのような様相を呈していたのであろうか。
「わが国では翻訳語として『文明』『文化』を受け入れたのであるが、すでに述べたように明治の20年代に『文明』から『文化』への転換が始まった。いずれにせよこの二つの用語は国民国家の形成に密接に結びついており、国民国家を支えるイデオロギーとして形成され、また国民国家の諸装置(学校やジャーナリズム、等々)によって広められてきたのである。」「あらゆる国民国家は国家と国民の独自性を示す神話を必要とする。国民国家の時代に生れた諸学問はいずれもこの神話の形成を助けるものであった。」
 そして西川長夫は次のような問いをもって本を閉じる。「あなたは『国民』であり続けたいのか、『国民』を止めて別の存在になりたいと願うのか。」P208
 問いから15年が経っている。鉄鎖の花飾りは今も有効である。経済のグローバリズムと個別政治国家の存続という世界システム論を前提とするならば、中央と周縁との問題設定による矛盾を踏まえて、「脱『国民文化』のために」という副題のこの本書いた著者に、国民を止める道を提起することを要望したい。問うのではなく、提起を。(2010614)