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書名 埼玉平野の成立ち・風土
著者 松浦茂樹
初出 2010年 埼玉新聞社
埼玉新聞に連載していた時から、楽しみにしていた記事がまとまって読めるのは嬉しい。武蔵国の中心に位置していた現在の埼玉県がどのようにして成り立ってきたのかを,主に河川を焦点に当てて解いたのが第1章、埼玉平野開発の歴史である。第2章、絵地図から見る埼玉平野の歴史、第3章、龍蛇から見た世界・日本・埼玉の風土は新規に書き下ろされたものである。埼玉の歴史を大規模河川の治水から解明した画期的な視点がここにはある。そもそも関東平野という呼び方が一般的であり、埼玉平野とは特別の心持を持って発した呼称であろう。
松浦茂樹は埼玉平野の開発の歴史は、河川・水との格闘であった、と端的に指摘している。その代表的な事柄が、利根川の東遷と荒川の西遷である。埼玉平野は大規模な河川が流れを変えながら、地形を形づくってきた。この大規模な河川を制御するためには、進んだ治水技術が必要であった。これに比して文化の先進地域である大和盆地の開発が小規模河川への治水で済んだために、いち早く生産体制が組めたことも本文中に具体的に論じられている。
古代から中世にかけては、条里制の発達した箇所に注目し、利根川・荒川からの土砂が堆積した氾濫原(沖積低地)での稲作可能地であったことが示されている。流域ごとに氷川神社、久伊豆神社、鷲宮神社、香取神社などが分布している平安時代後期から鎌倉時代初期にかけては、全国的に大規模開発の時期であった。この開発地主が発展して行ったのが武蔵武士であり、一部を除いて大河川の氾濫原ではなく、本庄台地、大宮台地、入間台地などの関東ローム層台地を刻んだ谷地を根拠地としていたことを説いている。開発技術に規定されたことであるが、このような小規模生産地が点在する中で生れた武蔵武士は、小規模の武士団しか形成できず、一国規模(大名)クラスの武士団が生れなかったという全国的に見ても特異な様相を呈する理由を、地域性から明らかにした。応仁の乱ごろになると、大規模河川を交通路として活発に活用し、また港湾施設が戦略上の重要性を増していった。関東公方として鎌倉にいた足利氏は、成氏の代になって下総国古河に居を移した。古河は渡良瀬川と思川の合流地点にあり利根川にも出やすい水運の拠点であった。当時、利根川は古隅田川、中川、太日川を通じて江戸湾に出られた。河口は石浜、浅草、行徳であり最重要港湾施設である品川へ出られる。対立する関東管領上杉家の有力家臣であった太田道真・道灌父子は品川と利根川の河口との中間にある江戸に城を築くとともに、古河城への付城として岩槻城を築いた。岩槻は荒川と古隅田川との合流地点の慈恩寺台地の先端にある。
江戸時代になると水運とともに陸路である五街道の整備が課題となった。陸路で重要なことは大規模河川の渡河地点である。古代時代から戦国時代にかけて、関東平野の東半分へどこの道を通るか、それは利根川をどこで渡るのか、という陸路上の最大課題であった。特に軍備を整え軍団が渡るには、浅瀬か舟を並べた臨時の橋を作って渡河する2つの方法しかなかった。舟の橋の事例をあげると、源頼朝が石橋山の戦いに敗れて房総半島に逃れた後、反攻して武蔵国に入るのに太日(井)川に舟橋を架けて渡河したことは、有名な史実である。どこで渡河するのかについては「中世を道から読む」(齋藤真一2010年講談社)がある。そこではこう書かれている。利根川の渡河点は「東から順に長井の渡・中渡・堀口の渡瀬・福嶋橋・佐野の舟橋が渡河点となる。いずれも鎌倉街道上道に関連する渡河点である。」「利根川の長井の渡より上流の渡河点は、比較的安全性もあり、かつ渡河方法も多様で季節変化にも対応可能な渡河地帯ということができる。」したがって鎌倉街道中道の近くは恒常的な渡河点とはなりえなかった。
江戸時代になると、関東郡代伊奈氏による治水・新田開発から始まり、利根川東遷、そして荒川西遷の物語が続く。利根川東遷については先に読んだことがあるので、荒川西遷について松浦茂樹の記述に沿って考えて行きたい。荒川は秩父山地から流れ出て、熊谷で扇状地として広がり、行く筋もの流れとなって埼玉平野を潤していた。元荒川筋を流れていた荒川の流れを熊谷の久下(鎌倉時代初期に、熊谷直実と領地争いをした親戚の久下氏の根拠地はこの当たりである)で人工開削して和田吉野川へ落とし、入間川筋へ流域変更をした。寛永年間の伊奈忠治の仕事である。この工事の目的は、久下で荒川の堤防を通っていた中仙道の通行確保であった。1864年・元治元年には堤防6百メートルが決壊して50日に渉って船でしか中仙道を通えない状態が起こった記録があるという。元荒川筋の水量が減り、綾瀬川(足立郡と埼玉郡の郡境の川)か改修され、次に見沼の干拓による大規模な新田開発もこの荒川東遷の副産物とでもいえるものである。私のここでの関心は、父の出身地が吉見町であるので、比企、入間地域の荒川西遷後の治水である。何処で土手を作るのか、あるいは河川の両岸、上流下流の民にとって生活を守る一大事である。治水での利害を一にする地域ごとに「領」が結ばれていた。荒川、入間川筋では吉見領、川島領など、利根川筋では羽生領に始まり向川辺領、川辺領、幸手領、などを下って中川筋では八条領、二郷半領などが形づくられていた。
近代になって、歴史的に注目されているのは渡良瀬川の足尾鉱毒事件である。松浦茂樹は田中正造の取り組み方について批判的な意見を持っている。
交易の問題では日本海との連絡を取り挙げている。安定的な航海航路であった日本海側(新潟港)から信濃川を上り、清水越新道を作り、高崎から江戸(東京)に到る交通網の構想は江戸時代から検討され、明治初期には高崎から長岡までの馬車道が完成している。これに関連して井上馨、三島通庸とが上州方面への遷都の秘密建議を提出している。
まだ、まだ近代・現代に渉っても貴重な視点は尽きない。今日の八ッ場ダムの問題―それは1947年の大水害後の利根川治水計画に発している2百年に1回の確立への対応の是非―に通じる河川の治水・活用の課題は、大規模河川の恩恵を受け、また災害を受けてきた埼玉平野に住む私たちが改めて風土を振替える絶好の一冊である。(2010年7月29日)