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楽書快評
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書名 頼朝勘定

著者 山岡荘八

編年 1999年 講談社

 山岡荘八は、なかなかのストーリテラーである。一時代を築いただけのことはあると思う。彼は武張ったことが嫌いである。戦乱が山岡荘八は嫌いである。例えば、織田信長が吉法師と呼ばれたころを扱った「松風童子」(「週刊朝日」1952年陽春読物号)では、父織田信秀を次のように描写している。「応仁の乱の方、百年近く打ちつづく戦乱で、民百姓ばかりか上下あげて戦いに倦んでいる。どのような意味からも。もはや平和が訪れてもいい筈だった。・・・これに統一を与える者はむろん強くなければならなかった。だが、その強さだけでは・・・と考えて、・・・この世の行手と人心を凝視して、こうでなければ平和は招き寄せられぬ―そうした信仰がひたひたと信秀をとりこめてゆくのが分かった。」と描かれている。山岡荘八は、いま小説を書いている敗戦後まもなくの時代を大事に感じているのである。「頼朝勘定」は11編の短編を集めたものであるが、深刻な題材のなかにも、情愛やユーモアが込められていて、悲劇もペーソスに転換させている。

 本の表題となった「頼朝勘定」(「別冊講談倶楽部」195511月号)は伊豆国蛭ヶ小島に流されていた頃の源頼朝と側に仕える安達藤九郎盛長とその妻笠戸との逼塞した暮らしと、その中で伊東祐親の娘八重姫との悲劇、そして北条政子との出会いが描かれ、頼朝の勘定高い性格を表わそうとしているが、あまり上手く描けたとは思えない。私は、「疾風浪人」(「小説倶楽部 19539月号」に引き込まれて一気に読んでしまった。伊勢国津の領主藤堂高虎の家臣鬼頭甚内は主家を退散する。藤堂高虎が放った追っ手は須知伊予という女子であった。

 人形のような男姿で、伊予も負けてはいなかった。

 「上意討ち・・・と申している。その意味もわからぬほどの男だったのか甚内は」

 「なにをほざく。この甚内がご城下退散には女子どもにわからぬ武士の意地があってのことじゃ。たわけ者め。」

 「たわけ者めッ」

 伊予も小さな体を波打たせて云い返した。

 「この伊予が上意をうけて討手に向う。否と云えぬ女の意地のあってのことじゃ。それがわからぬのか、たわけ者め」

 甚内は「ウ―ム」とうなって舌打した。

 (なるほど聞きしにまさる女だ・・・)

・・・・・・・・・・・・・・・

 伊予は馬上できりりと手綱をしぼって、

 「こなた一人を立退かせては殿の武士道が相立たぬ。今の腕では討てぬゆえ、どこまでもつきまとい討取る日まで追いつづけよとの殿の御諚じゃ」

 こうして不思議な浪人生活を伊予と送る事となった。甚内が出奔する切欠となったのは、友人園部又太郎との縁談のあった伊予を主高虎が手をつけようとした。これを諌めたところ、高虎は勘違いして伊予と甚内とがいい仲であると一人合点し「これは悪かった。気がつかなんだ、許してくれ」という事態になり、それがめぐって又太郎に「殿の仲人で須知の娘と婚約がととのったそうな、おめでとう」とたたきつけるように言われる始末となった。窮した甚内は自分から主君に暇を出して討たれて死ぬ気となった。伊予は高虎に討手であるが、甚内の妻でもあると、言い含められていた。時は移って3年が経ち甚内の住む隣に伊予は住み着いた。時代は大阪城を徳川家康が囲む夏の陣である。甚内を訪れたのは徳川方の大名として参陣していた藤堂隊に属していた又太郎であった。四尺近い太刀の柄をたたいて入口に突立った。

 「吐かすなッ甚内、うぬは堪忍ならぬ奴だ。うぬは・・・おれや殿の気も知らずに、まだ伊予どのと一緒になっていぬという。うぬは人の情けを知らぬ犬畜生だ!」

 こうして甚内と又太郎とは戦場とも知らず、一騎打ちのために大阪の街中に駆け出していった。そこで見たのは高虎と数人の馬廻りしかいない所に殺到する大阪方の切り込み隊であった。甚内は高虎の前に仁王立ちになって,誰にともなく、「来いッ!」と吼えた。救われた高虎は「もうよかろう。高虎を許せ、その方の心を知らなんだ高虎の不覚であった」と声をかけるが、帰参はせずにまち住まいを選ぶ。高虎は云う。

 「頑固な奴め、よし、伊予ついていけ」 

 「はい」

 ここまでの「疾風浪人」の話の展開はよい出来である。しかし、落ちがよくない。それから10年後、大阪新町の遊郭「鬼面屋」という妓楼の主人に収まった甚内とその妻の伊予の姿を描いている。武士を捨て町人になることを駄目押しのように言わなくてはすまない山岡荘八の戦後観は感じるが、蛇足である。

 山岡荘八は女性の気性を描くのが上手い。この「疾風浪人」の伊予、あるいは「頼朝勘定」では勝手に恋文の宛先を代えてしまう笠戸、それを知っても知らぬ顔の政子、あるいは本阿弥光二の妻妙秀の腹の出来具合(「本阿弥辻の盗賊」)、奥平平八郎の妻於阿和に成りすまして武田勝頼の下に送られたおふうの意気「おふうの賭け」、そして「おせんと沢庵」(文芸朝日 19625月号)のおせん。

 「おせんと沢庵」は紫衣事件によって岩城国上ノ山の土岐頼行のもとに流された沢庵にまつわる小説である。飄々として捉えどころのない禅僧沢庵と世話係となったおせんとの「春雨庵」での暮らしが題材である。紫衣事件の核心をつく最後のワンピースを探り当てたのは沢庵ではなく、おせんであった。

 「は・・・はい!蔵王のおやまのように、でっかい・・・でっかい悟りを開きました」

 「ほう、どう悟った」

 「生きてる天海さんの、腹のうちを悟りました」

 「なに、大僧正の肝のうち・・・」

 ・・・・・・・・・

 「それで、それで、後継ぎがほしいのです。自分の代わりに将軍さまのお側に付いている人、・・・それを探しているから和尚さまを助けるのです。そうです。で、お殿さまもおとがめを受けずに済むのです。」

 沢庵は「参った」と。「そうか。あの金毛九尾の化ものの和尚め,人のいい金地院崇伝をたぶらかし、紫衣事件を起こさせて・・・さてその中から骨のある将軍の師傳を選ぶ・・・残念じゃ。がんじがらめの鎖の網にかかってしもうた・・・おせん、もうあかん、春雨どころのことではないわ」

 こうして沢庵は春雨のように穏やかな上ノ山の暮らしから政治の場に憮然として引き戻され、また故郷出石からも京都からも剥がされて、江戸に近い品川に東海寺を得て三代将軍家光の師傳としてつながれてしまった。

 おせんは「――ああ、あの大和尚だば、むかしのおらの色男だったがのし」とぬけぬけと云って、時おり眼をほそめてみせた、と山岡荘八は後日談を描いている。戦乱を、戦争を、政争を開くのではなく、収めることに山岡荘八は趣を感じているのであろう。手馴れた小説家の心を見る思いである。(201085日)