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書名 狼奉行
著者名
高橋義夫
初出
1992年 文藝春秋
雪深い黒森館に追いやられた祝靱負は焦燥に身を焦す。が、実は藩内抗争の激化の兆候を憂えた父親たちが抗争の届かない辺境に身を移させたものであることが後に明らかになる。
物語は羽州上山藩の関所を舞台に繰り広げられる。辺境の暮らしの中では狂犬病にかかった狼たちを撲滅させるために
、兵学を応用した陣立てを使い、狼を追いつめる(狼詰)力量を発揮する。ここから狼奉行という表題が用意させている。小説の山場のひとつがこの狼詰であり、狼のリーダー「かせぎ神」との祝靱負の死闘である。
その辺境にも在地の暮らしの厳しさだけではなく、政治を営む武士社会の必然である派閥抗争の余波が訪れる。
黒森館は、藩の関所であるばかりではなく、狼や、熊そしてマタギの住む別の世界との境界でもあった。祝靱負が信頼する派閥の人たちが、この関所を超えて脱藩するのは別の世界へではなかった。江戸藩邸や上田藩が越境先としてイメージされていた。
しかし、マタギの娘「みつ」との間にも子を設け、祝靱負は別の世界との交流に足を踏み入れ始めていた。祝靱負に作者高橋義夫はこう語らしている。「拙者は受難の有志と同じ辛苦を分かち合うのだと、食を細くしておまえ(みつ)に心配をかけた。いま思えば恥ずかしい。辛苦の真似をしただけだ。良心でわが身を飾りたかっただけだ。結局、食をもてあそんだのだ。」
藩内抗争が祝靱負にも及んだとき、黒森館での生活の中から選んだのはこの別の世界への越境であった。
歴史小説は武士を描くとき、藩内抗争を定番メニューのように描く。「狼奉行」が卓越しているのは、このような藩内抗争に埋没して辛苦や良心を語るのではなく、封建的な身分制度の埒外への越境を構想した点である。直木賞に選ばれたのも、在地の生活描写の的確さだけではなく、このような別の世界への越境が読む者に人生の可能性の広がりを感じさせたからであると思う。(2003/10/25)