
書名 夢酔独言
著者名 勝小吉
初出 天保14年(2003年12月 教育出版)
火事と喧嘩は江戸の華という。勝小吉は従弟の子どもの男谷新太郎と忠次郎、それに用人の源兵衛とともに喧嘩をしに蔵前の八幡(東京都台東区にある蔵前神社)に出かける。忠次郎が鼻歌を歌ってくる「きいたふう」の道連れに突然、顔に唾を吐きかける。そこから大立ち回りが始まる。相手に加勢が加わり鳶口を持った50人を相手に4人で「たたきあった」がさらに加勢が来たのでいったん引き上げる。「それから源兵衛とまたまた壱所に八幡の前へいってみたら、はたご町の自身番へ大勢ひとが立っているから、そこへいって聞いたら、『八幡で大喧嘩があって、小揚げの者をぶったが始まりで、小あげの者が二、三十人、蔵前の仕事師が三十人ばかりで、相手をとらえんとしてさわいだが、とうとう壱人もおさえずにがした。そのうえこちらには十八人ばかりが手負いができた。今外科がきずを縫っている。』というから、四人ながらうちへかえって、おれは亀沢丁へかえったが、あんなひどいことはなかったよ。」
これが勝小吉の世界である。あんなひどいことはなかった、と本人が自叙伝「夢酔独言」に書いているのだから間違いがない。ひどいことはこれに限らない。
「おれが山口へいたうちだが、ある女にほれてこまったことがあったが、その時におれが女房が、『その女をもらってやろう。』といいおるから頼んだらば、『私へ暇をくれ。』というから、『それはなぜだ。』といったら、『女のうちへ私が参って、ぜひとももらいますが、先も武士だから、挨拶が悪いと私が死んで、もらいますから。』といった。その時に短刀を女房へ渡したが、『今晩参ってきっとつれてくる。』というから、おれは外へ遊びにいったらば、(易者からいさめられ)考えてみたらおれが心違いだから、夕方うちへ飛んで帰ったら、隠居に娘をだかせて男谷へやって、女房は書き置きしてうちを出るところへ帰って、それからようよう止めて、何事もなかったが、これまでたびたび女房にも助けられたことがあった。」今日の常識からして逸脱している小吉の感性である。多分、江戸時代でも特異な感性であったことだろう。
この勝小吉を評価したのは坂口安吾。第二次世界大戦中に書いた「青春論」(1942年)にこんな一節がある。「奇々怪々な先生で、不良少年、不良青年、不良老年と生涯不良で一貫した御家人くずれの武芸者」である勝小吉について、宮本武蔵と比較して論じている。
「この自叙伝の行間に不思議な妖気を放ちながら休みなくながれているものが一つあり、それはじつに『いつでも死ねる』という確乎不抜、大胆不敵な魂なのだった。――夢酔の覚悟に比べれば、宮本武蔵は平凡であり、ボンクラだ。」
勝小吉は勝左衛門太郎惟寅(1802-1850)といい、隠居して夢酔と号した。旗本男谷平蔵の三男である。母親は平蔵の妾であり、本妻に引き取られて乳母が育てた。幼名を亀松。7歳のときに御家人勝元良の娘信(5歳)と縁組を行い養子となった。平蔵の父は越後柏崎から出た盲人の検校で、金貸しによって巨額の富を蓄え3万両の金で平蔵を旗本の養子とした、といわれている。小吉の長兄は能吏で各地の代官を勤めた。長兄の養子となったのが精一郎。直心影流の達人で幕末の剣聖と呼ばれた人。先の逸話で大喧嘩をした仲間の男谷新太郎である。
小吉は「御番入り」を願って就職活動をしたが、文字を良くしなかったことなどが原因で、一生40俵のまま役職には就くことがなかった。江戸末期の無頼の徒として人生を費やす以外に小吉の世界はなかった。ただ一点の輝きは、海舟勝安芳(麟太郎)の父親であることだ。鳶が鷹を生んだという。なお、勝海舟の妹順は後に、佐久間象山の妻となる。
勝親子を題材にした小説を子母澤寛(しもざわ かん)が描いている。「おとこ鷹」(1960年から翌61年まで読売新聞に連載された)は「夢酔独言」を種本にした人情いっぱいの時代小説である。勝麟太郎と子煩悩の父小吉の物語となっている。夢酔独語に描かれているような「いつでも死ねる」と開き直った小吉の姿は弱められ、妻信とともに麟太郎の成長と活躍を願う優しい男と描かれている。死んでも女をもらってくる覚悟をする妻に短刀を渡して遊びに出る小吉は「おとこ鷹」には現れない。
お信はにこにこしている。
「いや、な。今日も空地の髪結からきいたが、あ奴鳶の者などと懇意にしているという」
「よろしいではございませぬか。あれはあなたの子でございますよ、勝小吉の総領でございますよ」
「はっはっ、鳶の子はやっぱり鳶ということか」
「わたしはそれで結構でございますよ」
小吉は、例によってごろりと横になって
「鷹にしてやりてえね」
とひとり言に小さくいった。
こんなシーンが繰り返される。麟太郎は将軍家慶の五男慶昌の学友に選ばれたが、慶昌が死亡したため出世の道は閉ざされる。その後、男谷門下の島田虎之助から麟太郎は直新陰流の免許皆伝を得ている。また、蘭学により麟太郎は自力で世に出る糸口を得る。麟太郎が蘭和辞書「ヅーフハルマ」を書写し終わったのを見た後、小吉は1850年49歳で死去する。小吉妻信は、陸軍総裁として西郷隆盛と会談し江戸城無血開城をした息子の姿を見たあと、1970年、明治3年に死去する。
「夢酔独言」は、水野忠邦が行った天保の改革で不良御家人として1841年12月から相支配保科方へ同居押し込められた(謹慎処分)中に、小吉本人が書いたものである。ところが、「おとこ鷹」では優しい妻が口述筆記をしたことになっている。出生と生い立ち、そして無役によって形作られた無頼の御家人は子煩悩の「父性」をもっていた。そこを極限まで強調して子母澤寛は描いたのである。どうしてだろうか。
子母澤寛は本名を梅谷松太郎という。1892(明治25)年に北海道石狩郡厚田村で生まれる。父を生涯知らず、母は駆け落ちして家を出て、元御家人であった祖父に育てられる。三岸好太郎は違父弟である。その祖父は「彰義隊に参加し、やぶれて北海道ににげた。子母澤さんは、北海道でこの祖父に育てられた。祖父は子母澤さんをひざの上にのせながら、江戸のころの楽しかった青春や、上野の戦争の話などをしてきかせた。――子母澤さんを、最期の幕臣だといったひとがある。祖父のうらみを血液のなかに継いでしまったというところもあるし、その美意識、とくに人間の行動に対する美の意識は、おそらくじかのゆずりであるにちがいない。」(司馬遼太郎 産経新聞1968年7月13日)
このような出生と生い立ちから分かることは、松太郎は麟太郎であり、祖父が小吉という構図である。「国民の文学」(河出書店 1969年)の一冊として出された折に解説を尾崎秀樹が書いている。「父と子との庶民的な愛の物語には、すでにふれたように作者と祖父十次郎との心の交流とが二重写しになっているところが、単なる歴史小説とはちがううま味があるのだ。」果たしてそうか。いじけやゆがみを徹底して描くことでしか旨味はうまれないと思う。子母澤の思い入れが過ぎたのであろうか。今日、「おとこ鷹」や「父子鷹」を読む者は少ない。「夢酔独言」を読まずに「おとこ鷹」を読んだ者は感動し、「夢酔独言」を読んで「おとこ鷹」を読んだ者はそのぬるさに驚くことであろう。(2004/2/22)
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