書名  犬のいる人生 犬のいる暮らし
著者名 愛犬家73名
初出 20043月 文芸春秋特別版
powaro 「全編書き下ろし、やすらぎと元気をもたらす73の愛犬物語」とうたった文芸春秋の3月臨時増刊号である。そこにあるのは犬との出会いと別れ。愛する犬との出会いは、愛する犬との別れにおびえをもたらし、そして離別の日を迎える。犬のいる人生は犬のいない人生であり、犬のいる暮らしは犬のいない暮らしである。
 犬をペットとする社会は、つい最近のことであり、地球上には犬をペットとしてみなさない社会も現在でも存在する。犬を人のようにあるいは人以上にみなすのは特異な状況である。近代以前の時代で、犬公徳川綱吉の施策は、人々にとって迷惑な話であったろう。
 中野孝次はすぐれた書き手である。「かような無心なものが」と犬を表現する。なぜ、無心なのか。それが、犬好きには一大事である。過去を顧みることもなく、明日を恐れることもなく、今を生きるのが犬である。それが無心であり、私たちに慰みを与える。言われてみれば、当たり前のこと。
「子はかすがい、ではなく犬(ミニチュアダックスフンド)はかすがい」と有元容子はいう。
「息子だったのです。」とコリーを池田晶子はいう。
「ジュリー(コリー)はダイ(息子)を見つめる。ダイの肩に前足を乗せ優しく舐める。ダイが人間であることが彼には悲しくて仕方がないのだ。」と尾形明子はいう。
「家内と私の間に横たわり、何の警戒心もなくダラッと体をのばして眠っているのを見ると、つくづく『次郎』(柴犬)は我家の末っ子だなと思う」と畑村洋太郎はいう。
「人は、通り過ぎた後に幸せだったことに気がつくらしい。ビッキー(イングリッシュ・ビーグル)が3年前に16歳7ヶ月で黄泉の国へ旅立ってしまった。私は、ビッキーと歩いた寺家の農道を、今日は一人で歩いている。」と根元寛はいう。
「僕が衝撃を受けているのは、死への対し方で、淡々と無邪気に命尽きた老犬に、憧憬を覚えた。妻は次の日にもう、トト(アイリッシュ・ウルフハウンド)を思い出す物すべてを整理し、出入口も犬のいない時に戻すように職人さんを入れ、あれが最後の犬ね、と言った。」と阿久悠はいう。
 犬は人間と同等の心の交流を求められている。人間は死を恐れて生きている。生まれたら死ぬしかない。その間のわずかな隙間に人生が詰め込まれている。犬のいる人生が犬のいない人生であるのは、自分の終末を犬の人生に投影しすぎるからである。文芸春秋の特集に載る人たちは、多くの方が、人生が出来上がった人たちである。自分の終末を考える年代である。癒しが癒しではなくなり、重い特集となってしまった。10代20代の若者が犬のいる人生、犬のいる暮らしについて語ったら、別の雰囲気ができたであろう。
 藤沢周平はある歴史小説の中で、可愛がっていた犬を友人が犬鍋にして食ってしまい、妹と友人との婚約を破棄した物語を描いている。「岡安家の犬」(初出 1992年7月 週刊新潮)がそれである。犬好きの岡安家で飼われていたアカが友人の野地金之助によって鍋にされ、知らずに主人公の岡安甚乃丞はそれを食べてしまった。「仲間は自分にアカの肉汁と喰わせてから、いま喰ったのはアカだぞと打ち明け、おどろくところを見て手を叩いて笑った」そこで怒った甚乃丞は妹八寿と金之助との縁談を破棄した。
 しばらくが過ぎ、領内を回って、アカに似た犬を見つけて岡安家の周りをうろつく金之助。「そっくり返って通りすぎる姿に、苦労してアカに似た犬をさがし出してきた自分の誠意と贖罪の姿勢を岡安の人々に認めてもらいたいという願望と、しかしながらそれは縁談をもとにもどしてもらいたいがためにしたことでは断じてないという痩せ我慢の姿勢がみえみえに出ている。」
 八寿は「だがいまは自分の目に金之助のさまざまなことが見えている。強情な金之助。みえっぱりの金之助、はずかしがりやの金之助。」
 無心の犬の一鳴きが若い人たちを結びつける。
 「犬は物怖じする様子もなく、とことこ男たちの先を駆け、庭の途中で立ちどまるとひと声わんとほえた。−アカが帰ってきた。と八寿は思った。すると思いがけなく目に涙があふれてきて、犬の姿も金之助の顔も見えなくなった。」と小説は結ばれている八寿に幸せがやってくるのである。(2004/3/14)
楽書快評
トップページに戻る
0023