書名 本能寺の変 山崎の戦
著者名 高柳光壽
初出 1977年10月20日 春秋社
 明智藪。「本能寺の変 山崎の戦」には1958年当時の撮影された明智藪が載っている。畑の奥に竹薮が見える風景である。そしてこのような説明書きが付けられている。
 現在の明智藪「醍醐三宝院の前の道をちょっと南に下ると西()へ入る道があり、それを1キロばかり行くと勧修寺の方から下って来る道に突き当る。そこをちょっと北へ折れると西の高みに上がる畑道がある。この道は藪を抜けて小栗栖の部落に出る。その藪が明智藪である。光秀は部落の方からこの藪を抜けて写真で見る畑の道へ出ようとした。写真の生瓜畑の向こうが藪の出口、そこから道は左に曲って藪に沿って図の右の方へ行き、また右に曲って図の草道へ出る。光秀が殺されたのは写真の瓜畑に立っている取手が垣根のように見える、その右端に当る藪下の路の付近であったといい伝えている。」
 2004年3月、私が勧修寺方面から道を下って明智藪を訪れたときには、1958年当時の面影はまったくなく、本経寺の敷地内とのことであったが、周りは新興住宅地となっていた。わずかに、真新しい石碑が立っているのみ。竹薮もすっかり小さくなっていた。
 天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀は、態勢が整わぬうちに、豊臣秀吉の中国大返しにあい、劣勢のまま山崎の戦(6月13日)に臨んだ。周知の通り、山崎の戦に敗北した明智光秀はいったん勝竜寺城に入ったものの当日暗夜にまぎれて坂本に向かって脱出を図った。高柳は見てきたかのように「すなわち彼は溝尾勝兵衛尉ら近臣5、6人とともに夜半この城を出て、秀吉方の包囲を巧みにくぐって、間道をとり、淀川の右岸を久我縄手から伏見方面に向かい、大亀谷を過ぎて、桃山北方の鞍部を東南に越えて小栗栖(京都市)に出、さらに勧修寺から大津に出ようとしたところを、小栗栖で土民のために襲撃された。相当の深手であったろう。もうこれまでと覚悟し、後事を勝兵衛尉に託した。勝兵衛尉は光秀を介錯し、首を鞍覆に包んで藪の中の溝に隠して坂本に走った。」と描写している。
 右の写真は1990年に明智藪碑京都洛東ライオンズクラブが建てたものである。そこには、光秀を襲った人たちを信長の近臣小栗栖館の飯田一族と記している。土民を飯田一族と明らかにしているが、その根拠は分からない。さらに街道を山科方面に20分程度歩いたところに、明智光秀の胴塚と言われている場所があり、碑が立っている。
 一体、高柳光壽(日本歴史学会初代会長)の文書表現は虚飾がなく、歴史家として現地調査、文献調査による的確な表現が光る。高柳の「明智光秀」(1958年 人物叢書 吉川弘文館)も好書である。そこでは、本能寺の変の理由を端的に天下が欲しかったと断じて、遺恨による主殺しを否定している。私も同感である。たとえば藤沢周平は「逆軍の旗」において信長の狂気に耐えられなくなった末の主殺しとして本能寺の変を描いている。心の葛藤としては面白いだろうが、歴史への見方としては織田信長がだんだんと狂気を募らせていくという発想も、遺恨による主殺しも通俗すぎると思う。高柳も信長の残忍さに触れているが、戦国時代とくに彼だけが残忍であったわけではない。今日の通念から判断するのでは本筋をはずすのではないだろうか。
 高柳は「明智光秀」の結語で「光秀の伝記を書き了ってここに感慨なきを得ない一事がある。それは信長の行動を書さなければ彼の伝記が書けなかったということである。彼の行動は信長の意思によって制約されていた。彼は信長の命のままに動いていた。これは淋しいことである。完全に独立した人格の樹立。それの企図が同時に死であった彼である。光秀がこのような悲しい運命をたどらなければならなかった社会、この封建社会が自由社会にまで発展するには、3百年の長い時日を要したのであった。」と書いた。このような封建と自由を対比させ、完全に独立した人格を設定する発想は、あまりにも単純化したものである。史実に忠実である目を高柳はもっている。しかし、その目を支える歴史観は時代に制約されていたと思う。(2004/3/20)
楽書快評
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