書名 幕末武州の青年群像
著者名 岩上進
初出 1990年3月 さきたま出版会
 幕末の草莽は西日本特有の現象ではなく東日本にも存在していた。特に初期の尊皇攘夷思想は水戸藩から生まれたことを忘れることはできない。やがて運動過程で敬幕(公武一体)か、倒幕かの分岐が生じるに及んで、経済力をつけた西日本雄藩連合が決定力を持つにいたったのが歴史である。その中で,江戸のお膝元の武蔵国にも名主階層の草莽が存在した。これを丁寧に拾い上げたのが「幕末武州の青年群像」である。
 「埼玉県の歴史」(山川出版社)には「草莽の志士の活躍」としてコンパクトにまとめられている。文久3年、清川八郎が計画した浪士組(後一部が新選組となる)への参加、赤城山での挙兵、高崎城乗っ取り、そして慶応3年(1867年)の薩摩藩邸浪士隊事件への参画などがその主なものである。代表的な人物として当時の大里郡甲山村(旗本領・大久保、筒井両家の相給)の豪農根岸友山を挙げている。嘉永16年(1854年)プチャーチンの率いるロシア艦隊と主席として対応したのはこの領主であった筒井肥前守政憲(大目付、西丸留守居)であり(次席は勘定奉行 川路左衛門尉)、友山の弟、三蔵は従者として長崎に赴いている。
 この根岸友山に焦点を当ててみたい。岩上進は「新選組と根岸友山」の章を起こして詳しく論じている。彼は文久3年浪士組の一番組小頭として江戸を出発したときすでに55歳であった。この根岸友山の人生を決定付けたのは友山32歳のときに首謀者の一人として参加した「蓑負騒動」(1841年)である。荒川の改修工事に関連して普請総代となっていた小泉村名主の不正を小泉村領主である川越藩松平大和守斉典に強訴した事件である。荒川南岸の普請組合23ヶ村の450名が川越に一番近い甲山の根岸家所有の地蔵堂の鐘を合図にいずれも蓑笠をかぶり、農具を手にして川越城下に参集した。幕府は名主、組頭、百姓代を捕縛、投獄し中には牢死するものも出た。根岸友山もその中の一人である。向谷の名主、矢島健次郎は騒動の総代として罪を一身に負い、高野山へ逃亡、諸国を転々とし、ついに捕縛されることなく実家に戻り一生を終えている。
 荒川は武蔵国を貫き、名前のように荒れる川であった。「寛政6年(1629年)関東郡代伊奈忠治は久下村(現在 熊谷市)地内で荒川を堰止め、かつての和田・吉野川の流路に瀬替えを行い、現在の川筋が定まったといわれている。そのため、荒川と和田吉野川に挟まれた当村域は、水害の常襲地帯となっている。」と『埼玉県の地名』(平凡社)では述べている。また「寛永6年久下村付近で荒川を堰止め、これを入間川支流の和田吉野川に連結した。これにより、草加、千住などの下流域では水害が減少したが、入間川筋の荒川沿岸一帯は逆に水害の多発地帯となった。およそ4年に1度の割合で洪水に見舞われた。」との分析もある(日本地名大辞典 埼玉県 角川書店)
 岩上進は文政5年(1822年)から天保2年(1831年)までの10年間で7回の洪水があったと記録している。大地主であった根岸家にとって洪水は死活問題である。友山は蓑負騒動を咎められて江戸10里四方追放の刑を20年にわたって処せられた。根岸家は江戸から16里である。これだけなら江戸に近づくな、と言う「温情ある措置」(岩上進)である。しかし、これだけではなく「居村構」にもあっていたのではないかと沼田哲は説く(「武蔵の豪農と尊攘思想」『日本思想No13』1980年)。この説に従うと実際は別にして甲山の根岸家には友山はいられない。
 友山が許されたのは安政6年(1859年)である。この間、天保の改革から黒船の来航、そして安政の大獄まで激動の時代であった。自由になった友山は盛んに行動を始める。そして、浪士組への参加である。230名中50名が武蔵からの参加であったと言う。だが、清川八郎は画策が露見して江戸へ引き戻され暗殺されてしまう。友山も京都を引き上げてきた。
 動かす藩を持たなかった武蔵の草莽は夢想に近い挙兵計画をくりかえし、やがて相良総三の赤報隊に見られる「偽官軍」のレッテルを貼られて歴史から抹殺された。また、岩倉具視の探偵員を務めていた塩川広平(武州賀美郡元阿保村)も明治2年十津川郷士による横井小楠暗殺事件に巻き込まれ「暴徒等が横井小楠を斬殺するのを知りながら訴えなかった罪がある」として獄に2年も繋がれた。友山も慶応4年(1868年)8月、突然官軍に逮捕された。明治2年(1869年)2月まで牢につながれることとなった。「晩年は,敬神思想の普及、古器古墳の研究、古書籍等の編纂発行等に尽力したが、中でも寛政年間に編纂された『新編武蔵風土記稿』の復刻刊行と、比企郡西吉見村の横穴群集墳つまり吉見百穴を自資を投じて発掘したことは特筆される。明治23年(1890年)に病没した。82歳であった。」と岩上進は記す。実は根岸友山・武香の親子の名前をはじめて知ったのは、この吉見百穴の保存についての文書によってであった。私の父の出身はこの吉見町であり、幼いころこの百穴を訪れたあこともあった。
 このような友山を前田愛は「鎖国世界の映像」(毎日新聞社1976年)において「草莽の悲劇・根岸友山」との一章を設けて論じている。すでに亡くなって久しい前田愛は成島柳北など江戸末期から明治にかけての文学への果敢なアプローチを行ったことで知られている。何が悲劇なのか。前田愛は「赦免後の友山は長州藩邸に出入りして、桂小五郎、久坂玄瑞らの知遇を得、冑山では振武所という道場を設けて撃剣を、三余堂という塾を開いて文事を教え、50人の荘丁を養っていたという。20年の放浪を余儀なくされた幕府への怨恨が、勤王の志を育てていったのであろう。」他方では「この世直し(武州世直し)一揆は第2次長州征伐を中止させたほど大規模なものであったが、友山の養った荘丁が幕府瓦解を早めた農民の運動を阻止する力に使われたことはなんという皮肉な事実だろう。」そしてまた、この次年に友山の私兵が天狗党残党の討伐を装って内応する計画を立てたが、幕府関東取締役渋谷某に見破られてしまう。この渋谷某を、戊辰戦争の時には匿ったとの嫌疑をうけて官軍により投獄(前述)されたことをもって前田愛は草莽の悲劇とみている。
 さて、私の関心の方向も見えてきた。根岸家の豪農ぶりはいかがなものであったか。鋭い分析を行う沼田哲は先の論文で、小野文雄「近世関東農村における豪農の成立と経営について」を参照しながら、根岸家は甲山村の6割以上の33町歩と隣村箕輪村など他村併せて80町歩以上を有する地主として「村方の経済的支配を絶対化し、周辺地域きっての豪農となった」と語る。その12代目が友山である。友山はこのような経済的基盤を持って幕末草莽のみならず、安藤野雁(武州一揆への対応を描いた「冑山防戦記」の筆者)や寺門静軒(彼は自らを無用之人と自覚して「江戸昌盛記」を執筆し、これにより天保13年、幕府から「武家奉公お構い処分(武家への仕官を禁止処分)」を受けた)への庇護など多方面のパトロンとして存在した。この存在感が友山であると私は思う。
 さらに戊辰戦争のさなかに「吐血論」を著したが、そのなかで「天子の御国を奪ひ己が有となし朝廷の微弱を謀り課せたるもの」の初めは源頼朝であると断じている。徳川幕府を非難することは鎌倉以来の武家政権を批判することであり、享保期以降に名主となり急速に土地集積を行い、地盤を築いてきた根岸家にとっては武家社会こそが次の発展のネックと感じていたことを知ることができる。天子のもとの平等・自由が獲得目標である。従って、蓑負騒動の参加も、また武州騒動での弾圧もこの獲得目標の一貫である。武州騒動は慶応2年(1866年)6月、現在の埼玉県入間郡名栗谷を始まりとして、遠因として開港後の経済変動による富の偏在、直接的には第2次長州征伐に伴う強制的な兵糧米の調達により米価が沸騰したことが引き金となった。参加農民10万人、202ヶ村、520件の豪農・村役人が打ちこわしをされたという。富農である根岸友山が全力で持って世均しに抗した事は想像に難くない。私兵50名が天狗党や薩長倒幕勢力に肩入れするのは武家社会を終わらせ富農がより自由に富を形成できる社会を作るためであり、他方世均しを望む一揆に対しては武力で対抗するのは自力で築いた富を「均」されないための姿勢である。
 沼田哲は注において小野論文を引いて根岸家が明治以降も順調に資産、および社会的な地位を確保していったことを明らかにしている。明治15年の根岸家の田所有総高は50町1反6畝5歩、同18年の畑所有総高は22町7反5畝12歩。明治23年の地租1093円。友山の息子武香は公職を歴任し明治13年県会議長、明治27年互選による貴族院議員となる。大正元年11月、友山も贈従5位を得ている。草莽としては悲劇であったかも知れないが、根岸家の維持発展としては見事に歴史の転換点を豪腕で乗り切ったといえよう。武蔵の豪農として「家」の保持をおこなう手腕は見事である。
 幕末に当主が国学におばれて没落していった「夜明け前」に描かれた木曽の島崎家のことを密かに思う。いや、さらに見事に時代を生きた武州榛沢郡血洗島(現深谷市)の旧家「中の家」に生まれた渋沢栄一を思うべきかも知れない。(2004/3/28)
楽書快評
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