書名 坂上田村麻呂
著者名 高橋祟
初出 1959年 吉川弘文館
鳴動したという。嵯峨天皇が作成したとも伝えられる「田村麻呂伝記」には田村麻呂は甲冑兵仗を身につけて立ちながら身を東にして、陸奥へ向かって葬られたとされる。葬られた場所は、東国への出口に当る山城国宇治郡栗栖野。ここには田村麻呂の墓と伝わる遺跡が存在する。「伝記」には「其の後、若し国家に非常の事あるべくむば、則ち件の塚墓は宛も鼓を打つが如く、或ひは雷電の如し。爾来、将軍の号を蒙りて凶徒に向ふ時は先づ此の墓に詣で誓い祈る」。最初の征夷大将軍であるといわれる坂上田村麻呂の霊が、国家非常の時には鳴動して警告する。
坂上田村麻呂とは、どのような人物であったのか。「伝記」には身長が1尺8寸(180cm)、「目は蒼鷹(しらたか)の眸(ひとみ)を写し、鬢(びん)は黄金の縷(いと)を繋ぐ」偉人への褒め言葉としては異様ではないか。三位以上の略歴である「薨伝」には「赤面、黄鬚(あごひげ)」と簡潔に述べられている。これも異様である。
坂上氏が歴史上に名前を載せるのは壬申の乱(672年)のときである。大海人皇子(天武天皇)側の大和方面の戦いで騎馬を有する有力な部隊のひとつであった。たとえば倭古京の留守司坂上直熊毛が大伴連吹負とともに謀り、12の同族の倭漢直等に内応を迫った記事が「天武紀」に載る(「壬申の乱」北山茂夫 岩波新書)。これにより大友皇子側は二面作戦をせざるを得なくなり、攻防戦では大海人皇子側の戦いを優勢に導く。大伴連吹負は緒戦に勝利した後、坂上直老達を不破宮に派遣して大海人皇子に軍上を報告させている。戦後、坂上氏は直から、連、さらには忌寸の姓を賜る。この老の4代後が田村麻呂である。坂上氏は自らを中国からの渡来人阿知使主の子孫と称している。倭漢氏の一族である。当時「諸蕃」と呼ばれた。大和国の高取町大字観覚寺小字坂ノ上を本貫の地としている。坂上氏は渡来系の中級貴族として存在し、老、大国、犬養、苅田麻呂と着々と地歩を築いてきた。父、苅田麻呂は軍事貴族(陸奥鎮守府将軍)として実績を重ね、桓武天皇から大宿禰の姓を賜る。従三位まで上り詰める。このように渡来系軍事貴族が重要視された背景には桓武天皇の出生が考えられる。
天智天皇系列の光仁天皇を父とし、百済武寧王の子孫を称する和(やまと)氏の出である和乙継の子である高野新笠(にいがさ)を母とする山部親王(桓武天皇)は、渡来系氏族も活用する。話は横道に逸れるが、したがって後の武士団の桓武平氏も、渡来系の軍事一族であるともいえよう。桓武天皇は「軍事と造作」で際立っていた。造作とは長岡京・平安京の造宮、軍事とは蝦夷征討である。東北地方の軍事・行政全般に携わってきた坂上田村麻呂は延暦16(797)年11月5日、征夷大将軍に任じられる。この功により24年には48歳で坂上氏では最初で最後の参議となる。そして弘仁2年(811)5月27日、54歳の生涯を終える。
蝦夷征伐の実態はまた別の機会としよう。関心のある方は「古代日本列島雑記」(紙老虎)を開いて見て欲しい。ここでは、日本が大陸出身者や、また蝦夷と呼ばれた人々も含めて雑多な人々の集合であることを理解することの重要さ、この指摘のみにとどめる。蒼鷹の眸、鬢は黄金の縷を繋ぐ渡来系日本人が、あるいは赤面、黄鬚の軍神が、渡来系の母をもつ天皇の住む都を護ることが不思議ではなかったのである。「毘沙門の化身、来りてわが国を護る」(「公卿補任」弘仁年)と伝説化された田村麻呂。今、塚墓が鳴動することを聞かない。
田村麻呂の子どもの一人大野は大同3年(808)5月、従5位下に昇進し陸奥鎮守府副将軍、同6月陸奥権介になる。また広野は陸奥守、右兵衛督となる。この広野については多賀城跡から出土した漆紙文書で消息が確認されている。いずれも父を越えることは無かった。(2004/4/5)

0026