書名 火はわが胸中にあり
著者名 澤地久枝
初出 1978年7月 角川書店
 1878年(明治11年)8月23日の近衛兵の反乱、これを竹橋事件と呼ぶが、扱った書物は澤地久枝の「火はわが胸中にあり」しか思い浮かばない。大変な苦労をして歴史を発掘した澤地久枝に敬意を表したい。
竹橋竹橋2 竹橋事件は、西南戦争に参加した近衛兵への不満が爆発し、武力を背景とした宮城への強訴を企て、竹橋前で壊滅させられた事件である。不満とは西南戦争に参加した恩賞が上層部に止まり、逆に下士官・兵には減給などの待遇低下が行われた戦後の状況への不満である。中核となった近衛砲兵のほかに、事件の発端をつくった近衛歩兵、さらには鎮台予備砲兵大隊が事件を起こした枠組みである。近衛砲兵大隊営門近くの詰め所で使役当番をしていた小島万助が隣営の近衛歩兵の三添卯之助から強訴を働きかけられたのが発端である。不満は波のように形となって広がっていった。事件直前、秩父出身の田島盛介は家族への手紙で「近頃、人民一般苛政ニ苦シムニヨリ、暴臣ヲ殺シ、モッテ天皇ヲ守護シ、良政ニ復シタク、――」と書いた。澤地は政府による通信連絡を抑える処置により手紙は故郷には届かなかったと見る。のち、故郷秩父では大規模な農民反乱「秩父事件」が起きている。竹橋事件の近衛兵と違うところは、その組織性にある。
 竹橋事件当夜の様子を「ある明治人の記録」で陸軍士官学校生であった柴五郎は次のように描写している。相変わらずの描写力である。事件当日は柴五郎少年にとって「この日はわが家族、会津において殉難せる日」であった。下宿で寝ていると「銃声しきりにおこりて走りゆく足音繁く、戦争おこれりと立ち騒ぐ声しきりなり。余は古市とともに飛びおき、士官学校の服に着替えて飛び出せり。古市しきりに流弾危険なれば中坂より行かんとさけびおるも聞かず、九段坂を一直線に馳せ登りたり。飛弾しきりに飛びきたり、石垣にあたりて火花を散らし、危険このうえなし。」士官学校に集まって生徒隊として出動したのである。柴五郎はこの事件の感想を次のように記している。「西南の役しかり、この暴動しかり、いずれも維新に内在する無理、摩擦、未熟、矛盾に起因するものならん。」この言葉に「薩長の下郎」への反発をばねに生きた柴五郎の気概を感じる。また、予備砲兵大隊の内山定吾少尉は「上、弊政を行うときは、革命も当然なり」と語ったとされている。この実弟は柴五郎の同期生小二郎で、五郎は定吾の減刑運動に奔走したという(「守城の人」村上兵衛)
 近衛兵を裁いた軍事裁判所の「参坐」は東京鎮台第1連隊長乃木希典中佐。長州閥に属する乃木は第十四連隊長心得として西南の役に出陣したが、熊本城攻撃の最中に連隊旗を失うという失態を演じている。
 事件が発生し鎮圧時の自殺1名。銃殺された兵卒53名、下士官2名。1878年10月15日の処刑執行官は山川浩中佐、立会人は近衛歩兵第1連隊長野崎貞澄中佐である。山川浩は会津出身。西南戦争では熊本城に立てこもる谷干城たちの開放へ一番乗りをしている。士官学校に入学する以前、柴五郎が山川宅に下宿していたこともある。
 一兵卒たちの強訴に暗い影を落としたのは鎮台予備砲兵第1大隊大隊長岡本柳乃助少佐である。澤地久枝は繰り返しこの岡本に迫る。岡本は和歌山藩出身で陸奥宗光に連なる人脈の中にいる。岡本は和歌山藩時代、砲兵連隊長に就いていた。20歳のときである。この新兵制を推進する津田出への暗殺計画を聞いた岡本は同士とともに保守派の殺害に及んでいる。また、砲兵連隊の兵士が岡本へ深夜強訴を受けたこともある。強訴の内容は父母妻子を養うため扶持米を自宅のほうへ貰いたいというもの。岡本は後日の回答を約して解散させ、その後首謀者8名を探索し刑法局へ引き渡すという小規模の竹橋事件を体験している。軍制が統一されると、陸奥の引きを受けながら陸軍省出仕。
 竹橋事件当時、陸奥は西南戦争に連動した立志社事件のために獄中にあり、岡本は近衛兵の強訴を利用して、獄中の陸奥の奪還計画を持っていたのではないかと、伊藤痴遊の文章を引きながら澤地は推測している。不思議なことに岡本は刑死を免れ、「奪官」処のみで自由となる。岡本は後年,閔妃暗殺(1895年)の実行隊長となる。この暗殺事件には柴五郎の実兄,柴四朗(東海散士 「佳人之奇遇」の著者)も関係している。
 1825年12月に帝政ロシアではデカブリストの反乱後の処分は連隊を動かした中心的な将校5名の処刑と、残りの将校の流刑のみであった。これに比して竹橋事件の処分が近衛兵の場合、蜂起者の6分の1が銃殺、連累387名中有罪331名と言う大規模な処分であった。文春文庫の解説で石堂清倫が、これについて「ツァーリは、専制の打倒をさけんだデカブリストにたいし、日本天皇にくらべてなんと寛大であったことか。」と記している。その通りである。
 「火はわが胸中にあり」を読んで、澤地が断っているように、まだ解明されないことのほうが多い。断定する材料が乏しい。それでも次のような感慨を持った。竹橋事件は、兵の自然発生的な強訴の企てであり、指導部が形成されなかった弱さがある。そのため企ての広がりをつくる中で、秘密が秘密でなくなり、岡本の政治的な引き回しを許し、また早期の壊滅を余儀なくされる事態となった。それでも、明治初期に近衛兵による反乱、市街戦が宮城を目指して行われた事実を記憶したい。それは、柴五郎が言うとおり「維新に内在する無理、摩擦、未熟、矛盾に起因するもの」であり、現在にも通底することである。(2004/4/11)
楽書快評
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