書名 常用字解
著者名 白川静
初出 2003年12月18日 平凡社
白川静の漢字解釈は私にとって衝撃的であった。字統、字訓、字通など多くの著作があるが、日常的に使う漢字の「最も基本的な字形の構造について学習」できる辞書が常用字解である。中高校生でも理解しやすいようにつくったと、言うところが好い。
白川は編集方針で早速厳しい意見を述べる。「戦後のわが国の国語政策は、漢字の字数とその音訓の用法を制限するという、誤った方向で出発した。わずかに1850字の漢字と、その限られた音訓とによって、国民のことばの生活をすべて規制しかねないものであり、それが直ちに伝統的な文化との断絶に連なるものであることは、容易に予想することができたはずである。」1850字に圧縮し、また字形を変更したことについて「天下公行の字」をみだりにゆがめたと弾劾する。そして、字の成り立ちを中国古代社会の成り立ちとともに理解するための必要を訴えている。中高校生が中国の歴史とともに漢字を理解することが肝要だ、として常用字解を作ったのである。
文字は白川の考え方では漢字ができた3300年前の宗教儀礼に即して理解しなくてはならないという。これに対する批判もあると聞く。しかし、即して理解する姿勢の見事さに私はうたれる。このように理解する必要は3300年後にもあると思う。
それは「道」であった。常用字解では、道は首とちやくとを組み合わせた形。ちやくはしんにょう。歩くの意味。金文では又(手の形)をくわえたものがあり、「古い時代には、他の氏族のいる土地は、その氏族の霊や邪霊がいて災いをもたらすと考えられていたので、異族の人の首を手に持ち、その呪力で邪霊を祓い清めて進んだ。その祓い清めて進むことを導くといい、祓い清められたところを道といい『みち』の意味に用いる。」
なんともすさまじい字解ではないか。領域の外に出る(侵略)ときの恐れやおののきが伝わってくる。そして、異族を首狩して、血を滴らせながら行く道を清めていく儀式によって、そこが自分たちの氏族の霊が支配する土地に変換していく。異族の生首は、こうして自分たちの守護となる。
高村光太郎は大正期、近代的な自我を高らかに歌ったように見えた。「道程」である。道はどのように描かれたであろうか。
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため
江戸情緒を濃厚に漂わせていた東京にあって、アメリカ、ヨーロッパ体験を持つ光太郎にとって日本は異族の住む辺境であった。自然と一体化された父がまるで異族の生首であるかのように表現されている。江戸仏師の流れを汲む明治の彫刻家であった父光雲への反発とそれを近代的に乗り越えたと錯覚する青年期の自我が恥ずかしげもなく描かれている。最後のリフレインなど情緒に流れている。そして、情緒的に流れた分だけ、「典型」に示される祖先返りがすでに準備されていた、と私は思う。
しかし、詩の構図的には白川が字解したとおりの「道」ではないか。漢字が出来て3300年後の、光太郎の詩も呪術的である。(2004/4/18)

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