楽書快評
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書名 秩父悲話 秩父事件の心と風土

著者名 清水武甲

初出 1971年10月15日 

 1971年、事件後を経た80年の秩父の人と風土を写した写真集がある。秩父の写真家・清水武甲が「秩父事件は行きがかりに起こった偶発的なものではなく、秩父という風土の中で起こるべくして起こったもの」という視点から秩父を写し取ったものである。
 秩父事件は明治17年11月1日を蜂起の日と定め、困民党の在地オルグ130人が秩父中を駆けめぐった。最盛期には一万人以上の動員を以て一時秩父地域を制圧し自由自治元年を唱った事件であった。
 その評価は、現在も分かれているのは当然であろう。中公新書「秩父事件」(井上幸治)は、その中でも「心と風土」を清水武甲とは別の手法で表している名著である。養蚕と生糸と絹織物とに依存した山国秩父の人たちが、商品経済の荒波にもまれ、高利貸しに生活を奪われていく様子が描かれている。商品経済は、同時に欧米の生糸相場と西洋デモクラシーを秩父にもたらした。秩父の山並みを挟んで反対側、信州から駆けつけた井出為吉は若くして戸長も務めた。彼について井上幸治が写真集に寄せた一文で次のように書いている。
 「私は昨45年夏信州南相木村の井出為吉の生家を友人と調査したとき、明治16.7年までの法律書、とくにフランス法の訳書が大方揃っているのをみておどろいた。為吉は秩父事件だけではなく、自由民権運動中でも最高の部類にぞくする知性であった。」この井出為吉は吉田町の椋神社境内で田代栄助総理によって発表された役割表によれば軍用金集方である。
 また、秩父事件の歴史解釈についてこのようにも言い表している。「明治史において秩父事件のしめる特異な位置は、農村恐慌下の農民意識が完全に自由党の理念を解釈しなおし、地底からの抵抗が高度の政治思想とつながったことであろう。」
 「理念を解釈しなおし」とはどのようなことであろうかと思いながら私は「秩父悲歌」を手に取る。耕地と呼ばれる山間の生活が写されている。あるものは廃屋となり、あるものは墓の所在もなく、またあるものは石組みの立派な家が残りと、八十年後の事件の主要な参加者のその後の人生と家族の行く末が一枚一枚の彼方から浮かびあがってくる。
 例えば、風布(ふっぷ)の耕地。秩父盆地の入り口にある風布は九十戸のほぼ全村挙げて事件に関与した地域ある。秩父事件を一言で言い表した「乍恐(おおそれながら)、天朝様に敵対スルカラ加勢シロ」を発したのは風布耕地の大野苗吉(甲副大隊長)である。苗吉の生家は当時のままに写ってはいるが、苗吉の墓はなく石造りの祠の中に「茲に明治21年9月24日、通名苗吉、大野新吉の長男也」と記された木片が収められているのみ、とコメントがつけられている。幹部逃亡後も苗吉達は寄居方面から警察隊がすすんでくるとの情報に接すると、高利貸しを焼き討ちしつつ「平野部への積極的進出(井上幸治)」をねらって児玉方面へ向かう。そして平田大尉指揮下の鎮台第3大隊と金屋の戦い(11月4日)と呼ばれる秩父事件最大の銃撃戦を起こし壊滅する。「百姓一揆に稀なる天晴の剛兵」(土陽新聞)と報じられた戦いぶりではあったが、火縄銃と最新式の村田銃では勝負にならなかった。大野苗吉など11名の死体が運ばれた円通寺の庭が清水武甲の手によって静かに写されている。内務卿山県有朋が出動を命じた憲兵隊他の武力によって瞬間の自由自治がおわり、秩父はまた日常の中に戻っていった。
 また別の一葉には粟野の耕地にある馬頭観音が写されている。事件当時秩父の交通の要地であった粟野もすでに1971年当時二戸になっていた。現在、そこは廃村となっている。人の住まない耕地が広がっている。
 秩父盆地の山並みが落とす影。清水武甲は「写真集でその暗さを発見したことは私の大きな収穫だったと思います。暗さの中に光を探すことが、明るさの中に光を見るより遙かに光の美しさを感じるものです。」と書いている。 (2003年11月1日)