書名 遺書
著者名 川路聖謨
初出 安政5(1858)年から慶応4(1868)年
「天津神に背くもよかり蕨つみ飢し昔の人をおもえば」徳川家譜代陪臣頑民川路聖謨
勝海舟と西郷隆盛とによる江戸城引渡の報を聞いたのは慶応4(1868)年3月14日(誤報で実際は4月11日)。その翌日、妻を用事に出した後、浅く腹を切り、拳銃で喉を撃って果てた。天津神の世が来る。しかし、徳川幕府の官僚としては次の政権の時代を生きることは出来ない。それを、「史記」列伝の最初に掲げられている伯夷、叔斉が周の粟を食べずに蕨を食べ、やがて餓死した故事を引いて頑固な気持ちを述べたのである。
川路聖謨は、ゴンチャロフの「日本渡航記」にでてくる有名なエピソードでその人を知ることが出来る。嘉永6(1853)年7月18日、開国通商を求めてロシアのプチャーチンが長崎に入港した。幕府は西丸留守居役筒井正憲と勘定奉行川路聖謨を全権に任命し、長崎に派遣した。川路聖謨は幕命に沿って開国要求を退けた。このプチャーチンとの交渉の様子を、ゴンチャロフ(無関心そして怠惰なロシアの貴族インテリゲンツィアの典型、「オブローモフ」の著者)が描いている。
「この川路を私達は皆好いてゐた。--川路は非常に聡明であった。彼は私達自身に反駁する巧妙な論法をもつて、その知力を示すのであつたが、それでもその人を尊敬しない訳にはいかなかつた。その一語一語が、眼差の一つ一つが、そして身振りまでが、すべて常識とウィットと、烱敏と、練達を示してゐた。明知はどこへ行つても同じである。民族、服装、言語、宗教が違い、人生観までも違つてゐても、聡明な人々の間には共通の特徴がある。馬鹿には馬鹿の特徴點があるのと同じである」(岩波文庫 井上満訳)。彼は明らかに幕末を代表する外交官の一人である。2月21日帰路大磯にあって、幕府がアメリカのペリーの開国要求に屈したことを聞き無念の気持ちに駆られている。一方は幕命を守る交渉を行い、かつ相手側から最大限の賛辞を得、他方では交渉において敗北している。
川路聖謨はこのような外交交渉を担当する以前は民生畑、特に司法に携わってきた。左遷された奈良奉行時代のエピソードは秀逸である。中野好夫の「伝記文学の面白さ」(岩波書店 同時代ライブラリー 1995年2月)に収められている。それによると、「五泣百笑奉行」と人々から呼ばれていたという。寄力、同心などの下級役人、博徒、法師、それに宿屋(裁判のスピード化によって長期滞在者が減った公事宿)という人々を苦しめる者は泣き、百姓は喜んだというのだ。
この時期のエピソードを中心に川路聖謨を取り上げているのが「江戸奇人伝」(平凡社新書 氏家幹人 2001年)である。こんな話もある。村人が借金のトラブルで債権者から訴えられた。債権者を恨んで奉行所の示談にも応じない百姓の姿勢に寄力は「御上を恐れぬ」として手鎖を科そうした。川路聖謨はこれを許さず、また百姓へは「債権者を憎むあまり滞在費がかかり、妻子が泣くのを思わないのか」と諭した。百姓はこれを受けて示談に応じたいという。人情の機微に通じたことばに、泣いて白州から立ち去りがたい百姓もいたといわれている。川路聖謨自身の遺言でも、江戸に帰るときには隣国の山城国境まで見送る者が充満して挨拶のために籠ではなく徒歩でいかざるをえなかったほどだ、と記されている。
川路聖謨の父内藤吉兵衛は甲州の出身である。九州豊後日田に流れ着き、天領である日田には郡代が置かれていたが、その代官所の下役(手代)にもぐりこんだ。同じ下役の高橋小太郎の娘と世帯を持ち弥吉、後の川路聖謨が生まれた。ところが、突然江戸に出てしまう。そして、幕府の最下級の役人である七十俵五人扶持の御徒になった。そして、兄弥吉を九十俵三人扶持御家人川路三左衛門の養子に、また弟松吉を御弓組与力井上新右衛門家の養子とした。「官僚 川路聖謨の生涯」(文春文庫 佐藤雅美 2000年12月10日)では七十俵の御徒の株が三百両、九十俵の御家人株が四、五百両ではないかと、さらにこのような資金の出所を母方の祖父高橋氏が、そして父内藤吉衛門が日田の下級役人時代に蓄えたものではないかと推測している。郡代が徴収する年貢は換金されて江戸や大阪に送られる。それまでの間、出入りの掛屋が貸し付けて運用する。日田金200万両といわれた。九州の金融の中心「日田は金の匂いのする町」と佐藤雅美は評している。この推理に魅力を感じる。
さて、足場は築かれた。後は才覚次第である。「夢酔独語」の勝小吉とほぼ同じ時代同じ境遇からの出発であった。川路聖謨の人脈は水戸の藤田東湖から始まる。(余談になるが、東湖の父藤田幽谷は後期水戸学の祖である。彼は水戸の古着屋の出身でもともとは飯田村の百姓を先祖としている。)藩主の徳川斉昭とも親しい。藤田東湖の紹介で横井小楠とも交わりを持っている。小楠は「この人、その名を聞くこと久し。果たして英物なり。」と述べている。それだけではなく、プチャーチンとの対応についても「夷虜応接大意」を川路聖謨に送っている。この中で説かれている応接の姿勢は「有道の国は通信し、無道の国は拒絶する」であり、これは川路聖謨の姿勢でもあった。
「今太閤」とまでいわれたそうである。だが、出世の街道を上り詰めたといっても紆余曲折は世の常である。その中でも最大の危機は高野長英、渡辺崋山、小関三栄らが弾圧された「蛮社の獄」ではないだろうか。川路聖謨は渡辺崋山や江川太郎左衛門とも親交があり、本丸御目付役鳥居耀蔵による蛮社の獄に連座してもおかしくない状況であった。伊豆代官江川太郎左衛門や伊豆七島代官の羽倉外記に渡辺崋山を紹介したのは川路聖謨であった。事の起こりは相模国警護場巡視に任じられたのが江川太郎左衛門と鳥居耀蔵。江川太郎左衛門を追い落とすために渡辺崋山に弾圧を加えたといわれている。
こうした幕末にいたる激動の時代に、川路聖謨は徳川幕府の官僚として誠実に職務を全うした。セルフコントロールされた才能は社会的に発揮され、はじめて見えるロシア外交団を圧倒するばかりか、もっとも魅力ある人物との評価も得ている。彼の職務への誠実さは単に幕命を尊守するということではない。たとえば、遺言の中で五百石の川路家の俸禄からすれば1朱、2朱はたいした額ではない。しかし、破れ衣をまとい、飢えた在所の百姓はこれで3日も4日も食いつなぐことが出来る。一時の奢りで1朱、2朱であろうとも銭を費やすな、と孫に訓戒を与える。この姿勢が「五泣百笑奉行」と川路聖謨を呼ばせたのである。
中国と違って日本は世禄制であり、「腹の内にやどりたるはじめより、墓所へ入まで、大君の子洪恩受居る身なれば,奉公すべき事を以って着眼とする」と遺言で語る。日本の封建制が科挙という試験制度によって成り立っている中国のそれとは本質的に違うことは川路聖謨の言うとおりである。その矛盾を突いたのは幕臣ではない、横井小楠であった。その矛盾を率先して生き抜いたのは自称甲州浪人の子、川路聖謨であった。成り上がり者は引き立ててくれた体制に殉じるほかに道はなかった。異なる体制に移行する場合の身の処し方を、すでに中風となった体で示して見せた。それも彼の誠実さの証である。
弟松吉は井上信濃守清直と名乗り、外国奉行となる。聖謨の長男は22歳で先に逝き、残されたのは孫の太郎。彼は慶応2年幕府派遣の英国留学生の取締役として派遣され、また明治4(1871)年には岩倉具視の欧米派遣使節団に書記官として参加。その後、教育界に転進し寛堂と号して82歳の長寿を得る。その子どもが大正期の詩人川路柳虹である。その柳虹は幕府派遣員の中で「最も悲惨な運命を負うた」と父寛堂について述べている。父から日頃、言われたことなのであろう。聖謨に比べれば何ほどでもない人生と太郎(寛堂)は思ったのか。「御旗本と云うものは、---手短に云うときは、人殺奉公、死役をよく君の御為にすると云うがもと也」と厳しく叱咤した遺言も、いわば周の粟を食って生きる太郎には利かなかったのであろう。(2004年5月3日)

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